こどもに対して今日のオヤツはなし、というのはパワハラだと思う
子どもに対して、罰を与えるために、
「今日のおやつは無し」
「明日のおやつは無し」
と言いこめるのはパワハラだと思います。私の嫁がよく使う常套手段ですが、
これは立派な虐待だと思います。
実際におやつを与えないことが虐待なのではなくて、そういう、現代において当たり前のように享受される機会を奪う苦しみをそそのかすことが、それに値するということです。
なんて贅沢な、と思うかもしれません。しかし水が汚れた国で綺麗な水を飲むのが贅沢であるように、贅沢という観念は相対的なものです。
現代の日本ではお菓子を食べるのはもはや三食プラス一食として、食生活に欠かせないと考えてもいいような気もします。(昔々は菓子は贅沢品で、与えなくても問題なかったと思いますが)
それをあっけなく奪うことをチラつかせるのは親としてどうかと覆うのです。
子どもを思うようにコントロールするためであったり、
はたまた日頃のストレスのハケグチとしての加虐行為。
直接殴る蹴るでは良心が傷みますし、暴言で責めるのもやましい、そんなときに、おやつは無し、というソフトな罰を与えることは倫理的にもギリギリセーフなのではないかと勘違いしてしまうのではないでしょうか。
おやつを与えない、という行為自体は何も問題はないかと思います。
しかし、さんざん親が自分で餌付けするかのようにおやつを与えてきただろうに(そうでない場合もあるでしょうけれども)、それを与えらえる機会を奪うことを交渉材料とするのは、もはや身勝手としかいえません。
でも、効くのでしょう。こどもに分かりやすく恐怖をあたえるには、そういう分かりやすいメッセージを出すのが。叩くよ!とか殺すよ?というのは実際に体罰を与えていないと、罰のメッセージとして体感的に響きません。
ムチをちらつかせるのではなくて、アメを奪うことを罰とする、
これこそが、なんだかんだで豊和な時代の、残酷な罰です。
パワハラです。力で抑えつけています。
そしてそれはまた連鎖を生みかねません。そういう罰を受けてきた子どもはまた親になると同じように子どもを叱るようになる可能性が高いからです。(パワハラを受けてきた人が出世するとその人もまたパワハラをするようになることが多いといわれるように)
とても悲しいことです。
でも世の中、攻撃的な人ばかりで、なぜかこういうソフトな加虐行為は、逆に「たったそれぐらいで傷ついてしまうほうが悪い」という風潮があります。人間は、私のように、一見図太そうに見えて、実はたった一言で、背後から不意に頭を鈍器で殴られたような脆さを持つというのに、です。
この妻は、
私に対しても、何を奪うことをチラつかせることで優位に立とうとします。とにかくその時ハマっている楽しみとか趣味の機会を奪うことを主張してくるのです。