INFP人生記

著者:MBTI診断INFP-T/男/家庭持ち/1980年生/吃音/HSP/営業職

理性は、本能を消すためにあるのではなかった

本能は命令ではない

こんにちは。INFPの田中です。

今日は、少し勇気のいる話を書きます。

人によっては、「そんなことを書くな」と思うかもしれません。

でも、人間の心というものは、きれいごとだけではできていません。

だから今日は、少しだけ、自分の心の中を見せます。

 

46歳になっても、本能は終わらなかった

私は結婚しています。

子どももいます。

家族を失いたいとは、一ミリも思っていません。

それなのに、ある出来事をきっかけに、自分でも驚くほど強い情欲に襲われるようになりました。

恋愛感情なのかと言われると、少し違います。

もっと、生物としての本能に近いものです。

昼間なのに、頭の中がそのことでいっぱいになる。

自分で自分に呆れるほどです。

正直、気色悪い。

 

人間は、届きそうなものに弱い

考えていて思ったことがあります。

人間は、本当に手の届かないものには、案外冷静でいられます。

 

夕陽がどれほど美しくても、「欲しい」とは思いません。

決して手が届かないと分かっているからです。

 

でも、冬の屋台のおでんは違います。

のれん一枚向こうにあって、財布の中のお金で手が届く。

だから、あれほどおいしそうに見える。

 

欲望は、距離が近いほど強くなる。

そんな気がしています。

そして、そんな傲慢な自分、「望んで手に入りそう」と思っているんだろう自分が情けなくなるのです。

 

脳は、ときどき勝手に暴走する

恥ずかしい話ですが、「聖人君子」という言葉を見ても、脳が勝手に下品な方向へ変換してしまうほどでした。性、、

「何を考えているんだ、自分は。」

そう思うたびに、またそのことを考えてしまう。

頭の中にいる何かが、自分を乗っ取ろうとしているようでした。

おそらく脳は、一度火がつくと、そのテーマばかりを拾い集めるのでしょう。

理性では止められない速度で、本能だけが走り出す。

 

深酒と、野生のフグ

ある日、ようやく言葉になりました。

これは、野生のフグを食べるような感覚なんだ、と。

きっと、おいしい。

一瞬の快楽はあるのでしょう。

でも、その先には毒が待っています。

 

いや、もっと正確に言えば、麻薬や覚醒剤に近いのかもしれません。

深酒に慣れてくると、飲みながら思うことがあります。

「ああ、これは明日ひどい二日酔いになる。」

「地獄を見る。」

それでも、心と体は"今"しか見ていない。

 

欲望も、きっと同じです。

その瞬間だけを見れば幸福なのかもしれない。

 

でも、その後には家庭、仕事、信用、自尊心、、

そういうものが決壊する未来が待っています。

 

私は、その未来を想像できます。

だから、自分に言い聞かせます。

ダメ、絶対。

 

理性は、本能を消してはくれない

若い頃は思っていました。

大人になれば、理性が本能に勝つのだと。

でも違いました。

理性は、本能を消してくれるものではありません。

本能は、いつだって存在します。

理性がしてくれるのは、ただ一つ。

人生のハンドルを握り続けること。

アクセルは踏みたがる。

でも、ハンドルだけは渡さない。

それが理性なのだと思います。

 

欲望を「運命」と呼ばない

私は何度も、「情けない」と思いました。

でも最近、少しだけ考え方が変わりました。

 

情欲が湧くことは、自分では選べません。

 

体を打てば痣ができるように、休めばまた走りたくなるように、本能は人間の一部です。

 

選べるのは、その後の行動だけ。

 

だから私は、欲望を「運命」と呼ばないことにしました。

「これは本当の恋だ。」

「運命の相手だ。」

そう言い始めた瞬間、人は自分を正当化し始めます。

私は、そうはなりたくありません。

 

今日も、本能は消えていません

この記事を書いている今も、本能は消えていません。

たぶん、明日も残っているでしょう。

でも、それでいい。

本能は命令ではありません。

ただの衝動です。

私は家族を守りたい。

積み上げてきた人生を守りたい。

だから今日も、自分に言います。

ダメ、絶対。

本能は消せない。

でも、人生のハンドルだけは、最後まで自分で握っていたい。

たぶん、人は本能があるから人間なのではない。

本能があっても、それでも何を選ぶかで、人間になるのだと思う。

吃音を「スパイス」と思っている私は、おかしいのでしょうか。

こんにちは。INFPの田中です。

何度も書いていますが、私は吃音があります。

子どもの頃からです。

 

営業という仕事をしていると、

「それでよく営業なんてやってるね。」

と言われることがあります。

実際、自分でもそう思います。

 

でも不思議なことに、

私は本番ではあまり吃りません。

普段の雑談のほうが危なかったりします。

自分でも理由はよく分かりません。

 

だから昔から、

「緊張すると吃る。」

という説明には、どこか違和感がありました。

 

さて。

ここから少し腹黒い話をします。

私は営業で吃ったとき、

心の中でこう思っています。

「あ、いいスパイスが入った。」

もちろん、お客様を馬鹿にしているわけではありません。

 

でも、

一生懸命しゃべっているように見える自分は、

流暢に話す営業マンよりも、

「この人、不器用そうだな。」

と思ってもらえる気がするのです(そう思わなきゃやってられない部分もあります)。

 

 

そして、その不器用さは、

「この人は口先だけではなさそうだ。」

という印象につながることがあるんだと思っています。

 

……少なくとも、私はそう信じています。

 

あざといですよね。

 

自分でもそう思います。

本当は能力だけで勝ちたい。

でも、人は能力だけを見てくれるわけではありません。

 

だから私は、

誠実さも含めて、自分という商品なのだと思っています。

 

そして吃音も、

その商品の一部。

 

……と思うことにしています。

 

私は昔、

吃音を消したいと思っていました。

でも今は少し違います。

 

 

「あ、また吃った。」

 

 

そう思った瞬間、

 

「ビブラートみたいなものか。」

と思うようになりました。

歌に、こぶしがあるように。

 

少しだけリズムが崩れる。

 

でも、それも私の声なんだと。

もちろん、

この考え方が正しいとは思っていません。

吃音で苦しんでいる人は、たくさんいると思います。

だから「気にしなければいい」なんて、一ミリも思っていません。

 

私だって、傷つかないわけではありません。

 

何か勢いよく話そうとすると、妻から、

 

「お、お、俺がやります!……とか言うの?(笑)」

 

と真似をされることがあります。

 

 

正直に言えば、かなり堪えます。

「ああ、やっぱり吃音って、そういうふうに見えるんだ。」

そんなことを考えてしまいます。

 

もちろん、妻に悪気があるのか、それとも冗談なのかは分かりません。

でも、言われた側の心には、ちゃんと傷が残ります。

 

だから私は、少しだけ変な考え方をするようになりました。

「これは前世から持ち越したカルマ、宿題なのかもしれない。」

 

「今、少しずつ返している借りなのかもしれない。」

 

そう思うと、不思議と怒りが少しだけ小さくなるのです。

 

……いや、本当は違いますね。

 

やっぱり悔しいです。

ちっくしょう。

 

 

 

それでも私は、

こう考えることで営業を続けてこられました。もう、20年。

 

そして、少しだけ思うのです。

 

もし私が、

背が高くて、

話も流暢で、

何のコンプレックスもない人間だったら。

 

今の私は、いなかっただろう、と。

 

吃音も、

チンチクリンな体も、

私を散々苦しめました。

 

でも、そのおかげで人の心理に興味を持ち、

言葉を考え、

文章を書くようになりました。

 

そして情報発信を始め、

今ではそれが仕事にもつながっています。

 

人生は、

失ったものだけではできていません。

 

拾ったものでも、できているのだと思います。

 

だから私は今日も、自分の声で話します。

つっかえながら。

 

それも含めて、私なのだと思っています。

日付が弱くて、構造に酔う私の話

こんにちは。INFPの田中です。 ― INFPだと思っていたら、少しだけ戦略脳でした。というより社会生活の中で性格もまた少しずつ変遷していくものです。

 

さて私は、今日が何日なのか分からなくなることがあります。

「あれ、今日は何日だっけ?」

曜日は分かります。
ゴミ出しの日も、仕事のリズムも把握しています。
けれど「◯月◯日」という数字だけが、ふっと抜け落ちるのです。

その一方で、

「あの出来事は何か月前だったか」

という問いには、かなり正確に答えられます。

あれは肋骨を痛めていた頃。
あのプロジェクトが動き始めた時期。
自分の人生観や仕事観が少し変わったあの季節。

私はどうやら、数字ではなく「物語」で時間を覚えているようです。

正直に言えば、少し不安でした。
何か脳のどこかが欠けているのではないか、と。

ですが、あるとき気づきました。

携帯電話を持ち始めてから、日付の感覚が弱くなったのです。今が46歳ですからかれこれ25年ほど前から、徐々に。

ロック画面を見れば日付が表示される。
カレンダーアプリが予定を教えてくれる。
確認すればすぐ分かる。

つまり私は、覚えるのをやめただけでした。

私の脳は、おそらくとても楽をしようとしています。

「外部に保存できるものは、内部に持たない。」

では、代わりに何を保存しようとしているのか。

構造です。
理解です。
仕組みです。

私は丸暗記が得意ではありません。
けれど、一度「なるほど」と腑に落ちたことは、ほとんど忘れません。

分からないことに出会うと、不安よりも先に、

「どういう構造なのだろうか」

と考え始めます。

攻略したくなるのです。

仕事でも、人間関係でも、
私はつい「仕組み」を探してしまいます。

自分ではINFPだと思っていました。

意味を大切にし、内省し、物語で世界を理解する。
たしかにその部分はあります。

けれど今回あらためて気づいたのは、
私はただ感情で動いているわけではない、ということでした。

理解できた瞬間に、強い快感があります。
構造が見えた瞬間に、少し酔うのです。

日付は覚えないのに、
社内のWi-Fiの長いパスワードは誰よりも覚えている。

それもきっと、私は無意識にパターンを見つけて、
「構造物」として保存しているからでしょう。

もし私と同じように、

・丸暗記は苦手なのに
・理解したことは忘れない
・分からないと攻略したくなる

という感覚をお持ちの方がいらっしゃるなら、

それは欠落ではなく、
もしかすると「設計者型」の脳なのかもしれません。

日付が弱い私ですが、
物語の時間は、かなり濃く生きているつもりです。

そして今日もまた、
世界の構造を少しだけ理解できたことに、
静かな満足を覚えています。

能力で勝ちたい。でも私は姿勢で戦っている話(あらゆるメールに全返答する営業マンたる私の想い)

こんにちは、infpの田中です。

今日はちょっと、INFPなのに営業マンとして奮闘している自分の黒い部分をさらします。

 

流通営業の私は、毎日100件くらいメールが来ます。

ccではなく「私宛」に来たものは、ほぼ必ず返信しています。

短くても返す。

 

「ありがとうございます!助かりました。」

 

これだけでも返す。

 

無視しない。
内容は二の次。

 

ずっと、それが正義だと思っていました。

 

でも最近、気づいてしまいました。

これ、誠実だからやっているだけじゃない。

 

本音はこうです。

誰もそこまでやってないから、抜きん出たい。

評価されたい。

 

「あの人はちゃんとしている」
「あの人は返してくれる」

 

そのポジションを取りにいっている。

戦略です。

 

しかも、ちょっとした小技も使います。

あえて遅い時間に返信したりします。

「まだ仕事してる感」が出るから。

腹黒いですよね。

(若い頃はこんな打算的な人間に自分がなるなんて想像もしませんでしたがINFPも社会経験を経て変わるものです)

 

でも、もっと正直に言うと、

私は本当は、姿勢で勝ちたいわけじゃない。

 

能力で勝ちたい。

 

返信が早いから評価されるのではなく、

「この人、地頭いいな」
「この人に任せると早いな」

そう言われたい。

 

でもそこに自信がまだ足りない。

 

だから今は、

姿勢で戦っている。

姿勢は今日からできる。

返信する。
無視しない。
感謝を言う。

これは努力でカバーできる。

でも能力は時間がかかる。

構造理解。
交渉力。
判断の速さ。

これは積み重ねがいる。

 

 

だから私は今、

姿勢で信頼を取りながら、
能力を育てている途中なのかもしれません。

 

少し怖い問いがあります。

もし明日から、
返信を半分にしても、

私は評価されるだろうか。

 

能力で、勝てるだろうか。

 

その答えは、まだ出ていません。

 

でも、たぶんこれから探します。

INFPはきれいごとだけでは生きられません。

 

理想もある。
承認欲求もある。
野心もある。

 

私は今日も返信をします。

でも、いつかは。

返信の量ではなく、
判断の質で抜きん出たい。

 

それが本音です。

地下鉄で迷う私が、Excelで未来を当てる理由――INFPが「自分の場所」に辿り着くまで

こんにちは、INFPの私です。

私は昔から、どうも「普通の人が直感でできること」が苦手でした。
地下鉄の乗り換え、タブレットのメニュー操作、
分かりやすく大きく書いてあるはずの看板。

 

「あ、こっちだ!」


そう思って進むと、だいたい逆。

 

最近では、神社のおみくじのお金を入れる場所すら分からず、
横にいた人がスッと入れるのを見て、
「え、そこだったの?」と呆然としたこともあります。

見えていないわけじゃない。
でも、意味として脳に入ってこない。

 

直感が弱い?

いいえ、違いました

 

長い間、私はこう思っていました。

 

自分は不器用なんだ

空間認識がダメなんだ

マルチタスクができないんだ

実際、若い頃に料理の世界に入り、
厨房のごちゃごちゃした環境と同時進行の作業に耐えきれず、
一年半で辞めています。

 

道具が散乱し、
指示が飛び交い、
優先順位が一瞬で切り替わる世界。

パニックにならない方がおかしかった。

 

でも後になって、はっきり分かりました。

私が苦手だったのは「料理」ではなく、
秩序が立ち上がる前の混沌だったのです。

 

なぜ工場の治具やExcelは得意だったのか

一方で、過去に工場で治具のメンテナンスをしていた頃は、
驚くほど落ち着いて作業ができていました。

そして今、
一番楽しいのは何かと聞かれたら、迷わずこう答えます。

「Excelを作っているとき」

特に、

売上予測

在庫管理

データを貼るだけで答えが出る設計

これを考えている時間が、最高に楽しい。

 

私はExcelで、

情報を分解し

ルールを決め

判断を数式に任せ

人が迷わない導線を作る

ということをやっていました。

気づけば私は、
「使う側」ではなく「設計する側」の人間だったのです。

 

 

特に相性がいいのが、

量販店

食料品

日次の売上予測

欠品ゼロ防止

この世界。

 

天候や特売で多少ブレるけれど、
芯の構造は変わらない。

 

Excelにルールを落とし込めば、
酔っていても精度が落ちないくらい、
判断を自動化できる。

これは才能というより、
脳の使い方が合っているだけなのだと思います。

 

地下鉄で迷う人が、未来を当てる

 

今なら分かります。

地下鉄で迷う私と、
Excelで未来を当てる私は、
矛盾していません。

 

私は、

直感で流れる世界が苦手

意味が曖昧なUIが苦手

でも、構造を作るのは得意

そんな人間でした。

 

INFPらしく言えば、

世界の混沌を、
静かな秩序に変える場所を
ずっと探していたのかもしれません。

 

もし、同じように迷っている人がいたら

方向音痴でもいい

マルチタスクが苦手でもいい

人より回り道でもいい

自分が「落ち着く作業」には、必ず意味があります。

私の場合、それがExcelでした。(同じように「仕組みで自分を助けたい人」へ向けて、
私なりのExcelの作り方を残しています。→ Excel時短テク大全

地下鉄で迷っても、
人生では、ちゃんと自分の場所に辿り着ける。

そんな話です。

自分は止まっているつもりでも、周囲が脱落していく

infpの田中です。

久しぶりの更新です。最近では、社会に順応するためなのか、INTPよりの結果も出るようになってきました。

さて、2026年一発目の記事は、

「自分は止まっているつもりでも、周囲が脱落していく」
この感覚についてです。

転職した当初のことを、今でもはっきり覚えています。

前職では、私はありがたいことにエースと呼ばれる時期もあり、
盛大に見送られて会社を去りました。
自分なりにやり切った、という感覚もありました。

それが――
今の会社に入社して一週間で挫折しました。

あ、これは無理かもしれない。
いや、それどころじゃない。
とんでもない判断ミスをしたのではないか。

そんな思いで、
毎朝、業火に焼かれるような気持ちで出勤していました。

年下の先輩にバカにされ、
あごで使われ、
罵倒される。

支店長からは、
マイクロマネジメントとパワハラ。

「前の会社では〜」なんて言える空気でもなく、
プライドを出せば、さらに叩かれるだけ。

正直に言うと、
自分という人間が、一度完全に壊れた感覚がありました。

 

 

それでも、辞めませんでした。

 

 

立派な理由があったわけではありません。
次が怖かっただけかもしれないし、
意地だったのかもしれない。

 

ただ一つ確かなのは、
毎日、会社に行ったということです。

 

心はボロボロでも、
評価されなくても、
「今日は昨日よりマシだったかもしれない」
それだけを頼りに。

 

気づいたら、時間が経っていました。

 

 

当時いた社員は、ほとんど辞めました。
新人も、定着せずに辞めていきました。

 

 

今、残っているのは――
もともと会社にいた本部長と、
気のいい先輩、
そして、私。

 

 

あの頃の地獄のような空気を知っている人は、
もうほとんどいません。

 

不思議なことに、
今も仕事が楽かと言われたら、全然しんどいです。

 

でも、決定的に違うのは、

自分の積み上げを、感じられている

ということです。

 

 

評価が爆上がりしたわけでも、
派手な成果が出たわけでもありません。

 

 

ただ、
・これは任せても大丈夫だろう
・あの時の判断は間違っていなかった
・あの修羅場を乗り越えた経験は、ちゃんと自分の中に残っている

そう思える瞬間が、少しずつ増えました。

 

最近、新聞で、
8年前に辞めた会社の後輩が
まさかの大出世をしているのを知りました。

 

正直、少し驚きました。
でも、同時に、すごく納得もしました。

アルバイトから入社してきてお調子者で真剣にやってる様子がない、、けど、
その人はずっと、同じ場所にいて努力を続けていたのでしょう。とてもかわいらしい性格の人でしたから周囲の持ち上げもあったことでしょう。

 

思うのです。

成功って、
前に進んでいる実感がある人よりも、

折れていない人のほうに、
後からやってくるものなんじゃないか

と。

自分はあがいて止まっているつもりでも、
周囲が脱落していく。

それは、
「何もしていない」という意味ではなく、
そこに居続けた、という事実なのだと思います。

このブログも、ほとんど誰にも見られていないのに
700記事近く書いてきました。

正直、
「何の意味があるんだろう」と思った日もあります。

 

でも、今日こうして書いていて、
少しだけ分かりました。

 

意味は、後からやってくる。

 

会社でも、
人生でも、
ブログでも。

2026年。

今年も、
派手に飛躍する自信はありません。

でも、
折れずに、居続ける自信はあります。

それでいい。
いや、それがいい。

infp-tの私は、
今日も静かに、ここにいます。

現実は長い夢、夢は短い現実

長い夢としての現実 ― 永遠のループの中で

INFP-tの田中です。

私たちは、朝、目を覚ますと「現実の世界に戻った」と思います。
けれど、本当にそうなのでしょうか。そういうようなことをふと最近思う、45歳の私です。


夢を見ていた自分が目を開け、
「これは現実だ」と認識する瞬間、
それは本当に夢からの覚醒なのでしょうか。
あるいは、ただ別の夢の層に移っただけなのかもしれません。

私はときどき、こう考えます。
現実とは、長い連続性をもった夢であり、
夢とは、短い連続性の現実ではないだろうか。

夢の中では、わずか数分の出来事が、
何時間にも感じられることがあります。
そして、夢の世界では矛盾があっても違和感を覚えません。


不思議な場所や、ありえない人物との再会すら、
その瞬間は「当然のこと」として受け入れています。

 

目を覚ましたとき、私たちはようやく気づきます。
「あれは夢だったのだ」と。
しかし、もしその「目覚め」さえも、
さらに上の層の夢の中の出来事だったとしたら──
私たちは本当にどこまでを現実と呼べるのでしょうか。

 

人は「現実に生きている」と信じています。
けれど、脳科学的に見ても、
私たちの体験はすべて意識の中で作られた映像だといわれます。


見ている風景、聞いている音、感じている痛みやぬくもり。
それらはすべて、外界の刺激を脳が再構成した“内部の世界”にすぎません。

だとすれば、「夢」と「現実」の境界は
どこにあるのでしょうか。


夢の中では外界が存在しないだけで、
私たちは同じように笑い、泣き、恐れ、願います。
その感情は、現実とまったく変わらないほど真実です。

 

現実が長く続く夢であり、夢が短い現実なのだとしたら、
私たちは、眠るたびに短い世界を旅し、
目覚めるたびに長い世界に帰っているだけなのかもしれません。

そして、そのふたつの世界は、
どちらも同じひとつの意識の中にあります。
夢も現実も、ひとりの「私」という存在が見ている物語。
長さだけが違う、二つの流れにすぎません。

そう考えると、「生きる」という行為もまた、
ひとつの長い夢のように思えてきます。


子どもの頃の思い出も、
昨日の出来事も、
いずれはすべて“遠い夢の記憶”のように霞んでいく。

時間の流れとは、夢の持続時間のようなもの。
私たちは「現実」という名の夢の中で、
目覚めることのないまま、
永遠にこのループを歩き続けているのかもしれません。

もしそうだとすれば、
今という瞬間もまた、
誰かがどこかで見ている夢の中の一場面かもしれません。

 

けれど、それでいいのだと思います。

 


夢であっても、現実であっても、
私たちが感じる優しさや、痛みや、希望は、
その瞬間、確かに「本物」だからです。

たとえ永遠に続く夢の中にいたとしても、
そこで誰かを想い、何かを信じ、
小さな光を見つけることができるのなら――


それこそが、この長い夢(=現実)を
生きる意味なのかもしれません。