INFP人生記

著者:MBTI診断INFP-T/男/家庭持ち/1980年生/吃音/HSP/営業職

誰にも破られない記録保持者――ゼロ秒はありえない理由

こんにちは、INFPーTの田中です。さて、これを書いている今、世の中は世界陸上が熱を帯びています。それに関連して、人間の限界について考えるとき、スポーツの世界記録は非常に象徴的なものになります。特に100メートル走は、私たちの身体能力の極限をわかりやすく示す舞台です。ウサイン・ボルトが9.58秒という驚異的な記録を打ち立てたとき、多くの人が「この記録はいつか破られる」と思ったことでしょう。しかし、ここで少し立ち止まって考えてみませんか。

もし、人類が未来永劫存在し続けるとしたら、世界記録はどこまで更新されるのでしょう。そして、もっと大胆に問えば、人間はいつかゼロ秒で100メートルを走れるようになるのでしょうか。

答えは明確です。ゼロ秒で走ることは、絶対に不可能です。なぜなら、距離が存在する限り、移動には必ず時間が必要だからです。私たちはこの単純な事実を見落としがちですが、ここにこそ深い哲学的な意味が隠されています。

 

数学と物理が教えるシンプルな真理

少し論理的に整理してみましょう。速さは「距離 ÷ 時間」で表されます。もし100メートルを0秒で走るとしたら、100 ÷ 0 = ∞ となり、無限大の速さが必要になります。これは現実世界では到底不可能です。

さらに物理学の視点を加えると、相対性理論により、質量を持つ物体は光速を超えることができません。光そのものでも、100メートルを進むのに約0.0000003秒(3.3×10⁻⁷秒)かかります。これはゼロではなく、必ず正の値です。

つまり、どんなに速くても、どんなに技術が進歩しても、ゼロ秒で移動することはあり得ません。距離がある限り、時間は必ず正の値を持つのです。

記録は永遠に更新され続けるのか?

ここで興味深い問いが浮かびます。「人間が未来永劫存在し、無限の挑戦が可能な場合、世界記録は永遠に更新され続けるのか?」という問題です。確かに、無数の挑戦が繰り返されるなら、記録は少しずつ縮まっていくかもしれません。しかし、ゼロ秒は不可能である以上、記録には必ず下限が存在します。数学的に言えば「ゼロに限りなく近づくことはできても、ゼロになることはない」というわけです。

ここで重要なのは、その下限が「到達可能」か「到達不能」かという点です。もし最小値が到達可能であれば、ある瞬間に誰かがその記録を達成し、以後それ以上の更新は不可能になります。逆に到達不能な下限であれば、記録は無限に縮まり続けるかもしれません。

現実世界を考えると、人間の身体は筋力、骨格、酸素供給能力などの物理的制約を持っています。そのため、どこかに「到達可能な限界時間」が存在すると考えるのが自然です。つまり、いずれ最終的な記録が生まれる可能性が高いのです。

永遠に破られない記録保持者

ゼロ秒が不可能であることを前提にすると、未来永劫に人類が挑戦を続けても、どこかで「限界の記録」に到達する瞬間が訪れます。そのとき、その記録を出した人物は、未来永劫誰にも破られない記録保持者となります。

考えてみれば、この存在はとても不思議です。無限の挑戦を経ても、その記録は揺るがない。まさに「唯一の存在」と呼ぶにふさわしいでしょう。ゼロ秒は到達不可能であるため、最終的な記録は必ず正の値を持ち、その瞬間に立つ者は永遠に破られない王者となります。

神のような存在としての最終記録保持者

この論理を深く考えると、「未来永劫にわたって揺るがない唯一の存在」という視点に行き着きます。無限の時間の中で、誰にも破られない記録を持つ存在――これは人間の理解を超えた究極の存在、つまり神のようなものではないでしょうか。

神とは、無限の時間においても揺らぐことのない存在です。同じように、ゼロ秒が不可能である以上、最終記録保持者は無限の挑戦の中でも決して記録を失わない。単純な物理の制約から、神に似た存在が必然的に生まれるのです。

INFP的視点で捉える意味

INFPタイプの人は、目に見えないものや抽象的な概念に共感を覚えやすい傾向があります。「人はなぜ生きるのか」「究極の真理とは何か」といった問いに強く惹かれるのです。このゼロ秒不可能性の話も、ただのスポーツの話ではなく、人生や存在そのものへの深い洞察に結びつきます。

どんなに努力しても超えられない壁がある。

その壁の存在があるからこそ、私たちは挑戦を続ける意味を持つ。

そして、究極の限界に到達する者が現れることで、「完璧な秩序」や「絶対的な真理」を垣間見ることができる。

この物語は、私たちの内面の探求にも通じます。無限の挑戦の中で、理想に近づく努力を続けること自体に価値があり、時には到達不可能な目標こそが、私たちの魂を輝かせるのです。

人間の挑戦と自己実現

ゼロ秒不可能性の話を現実に引き寄せて考えると、私たち一人ひとりの人生にも置き換えられます。理想の自分、究極の目標、完全な幸福――それらもまた、ゼロ秒のように到達不可能な存在かもしれません。

けれど、その「到達不可能」という事実が、挑戦を生み、成長を促すのです。INFPの私たちは、この挑戦の中にこそ意味を見出し、自分だけの価値を感じることができます。

世界記録やゼロ秒の話は単なる比喩にすぎません。
しかし、物理と数学、そして哲学を通して見えてくる「永遠に破られないもの」の存在は、人生の究極の目標や理想の姿を象徴しているとも言えるのです。

まとめ

ゼロ秒で100メートルを走ることは不可能。距離がある限り、時間は必ず正の値を持つ。

世界記録には必ず限界が存在し、いずれ誰かがその限界に到達する。

その人は未来永劫、誰にも破られない記録保持者となる。

この存在は、無限の時間の中で揺らがない「神」のような存在と重なる。

INFPにとって、この物語は、挑戦・成長・理想の追求という人生の意味と深く結びつく。

ゼロ秒が不可能であることを理解することで、私たちは現実の制約と向き合いながらも、挑戦する意味を見つけることができます。そして、永遠に破られない記録保持者の存在を想像することで、理想と現実の間にある美しさに気づくことができるのです。

INFPが怒られすぎて感じた“魂の離脱感” 自分が今ここにいない感じ|トラウマ体験と心の回復法

こんにちは、INFP-Tの田中です。私は家庭持ちで営業職をしている中年のサラリーマンです。吃音もあり、HSP気質を強く持っているため、人一倍感受性が強く、これまでの人生で数え切れないほど怒られてきました。若い頃の私は、なぜか「怒りをぶつけられやすい存在」だったように思います。理不尽に当たられることも多く、そのたびに「自分が悪いのかもしれない」と責めながら耐えてきました。

けれども、45歳になった今、ふと気づくと、以前のように激しく怒られることはほとんどなくなってきました。年齢を重ねるとINFPにもある種の「威厳」や「落ち着き」が出るのかもしれません。それはありがたいことではありますが、それでも過去の嫌な記憶が、不意にフラッシュバックしてくることがあります。

あの頃の私は、まるで「人格そのもの」を否定されているかのように、公然と罵られることがありました。お得意先や会社の重役の前で怒鳴られたときのことを、今でも鮮明に思い出します。その瞬間、私はある奇妙な感覚に襲われました。

――あれ? 今ここで怒鳴られているのは自分なんだろうか?

頭の奥がふわーっと遠のいていく。体はそこにあるのに、心だけがスッと抜け出してしまうような、幽体離脱的な感覚。私はその場に座りながら「これは自分ではなく、誰か別の人が怒鳴られているのではないか」と錯覚していました。

動物行動学によると、生き物が強いストレスや脅威を受けると「闘争か逃走か(fight or flight)」の反応を示すといいます。人間にも同じ仕組みがありますが、私の場合は「逃げたい」という気持ちが強かった。ただ、社会人としてその場から物理的に逃げ出すことはできません。そこで心だけが自動的に逃避し、 dissociation(解離)と呼ばれる状態になっていたのだと、今では理解できます。(これにちなんで思い出しましたが、二重人格・多重人格が形成されるには、幼少期の頃の過大な虐待にあった子どもが「今苦しんでいるのは自分ではない」と別人格を生み出す、というのを聞いたことがあります。無関係ではないと思います)

 

心理学的には、この現象は「防衛反応」の一種で、トラウマを受けやすいHSPやINFPに特に起こりやすいとされています。強烈なストレス下では脳が「現実感喪失」や「離人感」を生み出し、自分を守ろうとするのです。当時の私はそれを知りませんでしたから、ただ「自分は弱い人間だ」と思い込んでいました。しかし実際は、心が自分を守るために発動した仕組みだったのです。

年齢を重ねた今では、怒鳴られる場面は激減しました。けれども、ふとした瞬間に当時の光景が頭をよぎると、「あの人たちも私と同じ苦しみを味わえばいいのに」と暗い気持ちになることも正直あります。私は聖人君子ではありません。仕掛けられる側であった以上、倍返ししてやりたい、同じ強度の苦しみをもっと長く味わってほしい、と心の奥底で思うことがあるのです。

しかし同時に、私の中にはもう一つの気持ちも芽生えています。それは「自分があの地獄を生き延びた」という誇りです。あの瞬間、心が体から抜けるような感覚を経験したからこそ、今の私は「同じように苦しんでいる人の気持ち」を深く理解できるのだと思います。HSPやINFPであるがゆえに、私は過敏に傷つきやすい。しかし、その分、人の痛みに寄り添う力を持つことができるのだと信じています。

もしこの記事を読んでいるあなたが、今まさに職場や家庭で理不尽に責められているのなら、どうか自分を責めないでください。その感覚は「弱さ」ではなく、「生き延びるための知恵」です。そして時間はかかっても、必ずその呪縛から抜け出せる日がきます。私自身、45歳になってようやく過去を「思い出」と呼べるようになってきました。完全に忘れることはできなくても、その痛みを抱えたまま生きる強さを身につけられるのです。

あの頃の私は、「ここにいるのは自分なのか?」と混乱しながら怒鳴られていました。今はその経験を言葉に変えて、同じように悩む人たちに届けたいと思っています。私が歩いてきたこの道が、誰かにとっての「自分は一人じゃない」と思えるきっかけになれば、苦しんだ日々にも意味が生まれるのではないでしょうか。

 

 

※※

これはどんな症状?
このような感覚は、心理学的に「離人感」や「現実感消失」と呼ばれる解離症状に該当する可能性が高いそうです。離人感とは、自分の体や精神から切り離されたような感覚で、まるで自分の生活を外から観察しているように感じること。現実感消失は、周囲の環境が非現実的に見えたり、夢の中にいるような状態です。これらは、強いストレスやトラウマ(例: 繰り返しの叱責や虐待)がトリガーとなって起こることがあるようです。特に、怒られる状況が頻繁だと、心の防御機制として脳が一時的に「現実から離れる」ように働く場合があります。
これらの症状は、解離性障害の一種として分類され、PTSD(心的外傷後ストレス障害)や不安障害、うつ病の症状としても現れることがあります。例えば、怒鳴られるとパニックが起き、思考が停止したり、感情が麻痺したりするケースが報告されています。 原因としては、幼少期の経験(厳しい教育など)や現在のストレスが積み重なることで、心が「耐えられない現実から逃避」しようとするメカニズムが働いている可能性があります。

 

こんなものなのか?

一時的な反応として起こり得るそうです。

誰しも強いストレス下で似た感覚を経験する人はいます。例えばSNSでは、「怒鳴られるとパニックで思考停止になる」「怒られた言葉を過度に受け入れて凹む」といった声が見られます。 これは、心が一時的に「守りモード」に入る自然な反応だそうです。

 

UFOキャッチャーで学んだ“もらう勇気”──家族と少年から気づかされた人生の教訓

こんにちは、INFP-Tの田中です。
先日、家族で大型ショッピングセンターに出かけたときのことです。

フードコートの匂いと人混みのざわめきの中を抜けると、視界の奥にネオンが瞬くゲームコーナーがありました。子どもたちの笑い声と電子音が入り混じり、その熱気に包まれているだけで、何だか自分も子ども時代に戻ったような気がしました。

小学5年生の息子が、目を輝かせて私の妻に言いました。

 

「ねえ、やってもいい!?」

 

普段は「また今度」と言われるところですが、その日は給料日後。妻の財布のひもも、少しだけ緩んでいました。

息子はUFOキャッチャーに一直線。景品棚には、ぬいぐるみ、キャラクターグッズ、そして息子の視線を一瞬で釘付けにしたもの――銀色に輝くピストル型のおもちゃ。

 

「パパ、これ欲しい!」

 

100円玉を渡すと、息子は慎重にアームを動かし、狙いを定めてボタンを押しました。しかし、アームの握力はまるで赤ちゃんのほっぺを撫でるように優しく、ただ景品をかすめてずらすだけ。

がっかりしていると、隣の同じ台に、一人の少年が現れました。年は中学生くらいでしょうか。迷いのない動きで操作し、見事にそのピストルを一発でゲット。まるでプロのような手際でした。

次の瞬間、その少年は私と息子に向かって、ふいにこう言ったのです。
「いる?」

私は一瞬、戸惑いました。
知らない子から物をもらうことへの警戒心。息子の前で軽々と好意を受け取っていいのかという迷い。そんな考えが頭を巡り、私は反射的にこう言ってしまいました。


「いや、大丈夫。ありがとう」
息子も「自分でとる!」と答えました。

 

少年は「あ、そう」とだけ言い、少し興味を失ったように見えました。しかし、その後も彼は同じ台でまた一発ゲット。そこでようやく気づきました――彼はこの台の“攻略法”を知っていて、ゲームを通して人と繋がることを楽しんでいるのだと。

「もらっておけばよかった」と心の中で思い直し、勇気を出して声をかけようとした瞬間、少年は別の台へ行ってしまいました。

私たちは再びUFOキャッチャーに挑戦。

100円、200円、300円…気がつけば500円。ピストルは微妙に位置を変えるだけで一向に掴み上げられる気配がない、息子の眉間にはシワが寄ります。

そこへ妻が戻ってきて、「もう帰るわよ!」と一喝。息子は泣きそうな顔で「お兄ちゃんからもらえばよかったのに…」とつぶやきました。

事情を話すと、妻は呆れたように言いました。


「どうしてもらわなかったの? そんなの100円渡してすぐもらえばよかったじゃない!」

 

その言葉が妙に胸に刺さりました。
確かに、私は昔からこうやって遠慮しすぎて、チャンスを逃してきた気がします。自分だけならまだしも、今回は息子にまで“遠慮の連鎖”を経験させてしまった。

家に帰ってからも、この出来事が頭から離れませんでした。あの少年の差し出したピストルは、単なる景品ではなく「もらう勇気」を試すテストだったのではないか――そんな気さえしてきました。

 

半年経った今、私はこの出来事を少し違う角度から見ています。

確かに私は、即断即決や貪欲さに欠けるかもしれません。でも、その慎重さや人を警戒する性格は、私の“個性”でもあるのです。小さな幸運をその場で受け取らない分、大きな運を引き寄せるチャンスが残っている――そんなふうに考えるようになりました。

もしかしたら、またどこかで、あの少年のように何かを差し出してくれる人に出会うかもしれません。そのとき、私は遠慮せずに笑って「ありがとう」と言える自分でいたいと思います。

INFP-Tが職場の『ずけずけ事務員』に疲弊した話|境界線の引き方と心の守り方

こんにちは、INFP-Tの田中です。今日は職場でのちょっとした人間関係の悩みについて、私の体験を交えながらお話ししたいと思います。

 

なんでも遠慮なく言ってくる人に振り回される日々

私の職場には、思ったことをズバズバと言ってくる事務員さんがいます。一見すると気が利いて、周りのことによく気づく人なのですが、実際に一緒に働いてみると、なかなか大変な存在なのです。
「田中さん、このパソコン遅いんだけど、なんとかなりませんか?」
「この資料の作り方、教えてもらえません?」
「あ、ついでにこれも見てもらえますか?」


一日のうち、こんな調子で声をかけられることが頻繁にあります。気がつくと、私の作業時間の2割近くが、こうした対応に取られているのです。


最初の頃は「協力的でいい人だな」と思っていました。でも、だんだんと気づいたのです。この人は確かに周りのことに気がつくのですが、実際に手を動かして作業することは少ない。むしろ、他の人にお願いして解決してもらおうとする傾向があることに。

 

INFP-Tが陥りやすい「良い人」の罠

INFP-Tの私たちは、調和を重視し、人を助けたいという気持ちが強いタイプです。心理学的には「人助け症候群」とも呼ばれる状態に陥りやすく、自分の時間や労力を犠牲にしてでも他者の要求に応えようとしてしまいます。
私もまさにその典型でした。「頼られている」という感覚は確かに嬉しいものです。でも、それが日常的になってくると話は別です。自分の本来の業務に集中できず、常に誰かの要求に応えることに追われる状態になってしまいました。
荒れ狂う海を小舟で渡るような、そんな不安定な感覚が続きました。心が穏やかでいられる時間がどんどん減っていったのです。


境界線を引く勇気を持つまで


転機が訪れたのは、ある日のことでした。その事務員さんから「このエラーメッセージ、どういう意味ですか?」と聞かれたときのことです。画面を見ると、よくある「メモリ不足」の警告でした。
「それはパソコンのメモリが足りないということですね」と答えると、「じゃあどうすればいいんですか?」と続けて聞かれました。そのとき私は気づいたのです。この人は問題を解決したいのではなく、誰かに解決してもらいたいのだということに。
私は深呼吸をして、こう答えました。
「それについては、グーグルで『メモリ不足 対処法』と検索すると詳しい方法が出てきますよ」
その瞬間、私の中で何かが変わりました。相手は少し不満そうな顔をしましたが、実際に自分で調べて解決していました。


健全な境界線の引き方

心理学者のブレネー・ブラウンは「境界線は親切さと同義である」と述べています。最初は冷たいように感じるかもしれませんが、実際には相手の成長機会を奪わず、自分の精神的健康も保つことができる方法なのです。


私が実践するようになった境界線の引き方は以下の通りです。


1. 明確な情報提供で終わらせる
「わかりません」「それはPCの性能の問題ですね」など、事実ベースの情報だけを伝えて、解決策の提供は控える。


2. 自立を促す回答を心がける
「調べ方をお教えしますので、今度から参考にしてください」といった形で、相手の自立を促す。

 

3. 時間的な境界線を明確にする
「今は集中したい作業があるので、後ほどお答えします」など、自分のペースを尊重する。

 

罪悪感との向き合い方

境界線を引き始めた頃は、正直なところ罪悪感がありました。「冷たい人だと思われているかもしれない」「協力的でない人と評価されるのでは」という不安が頭をよぎったのです。
しかし、よく考えてみると、私が無償で時間と労力を提供し続けることで、本来なら公平に分担されるべき負担が偏っていたのです。私が「聖人」である必要はないし、むしろ健全な職場環境のためには、適切な境界線が必要だったのです。

 


人間関係の本質を見つめ直して


この経験を通じて、人間関係についても考えが変わりました。最初は「みんな自分勝手なんだ」と失望しかけましたが、実は違うということに気がつきました。
人は確かに自分のことを優先しがちですが、それは決して悪いことではありません。大切なのは、お互いが適切な距離感を保ちながら、それぞれの責任を果たすことなのです。
私が学んだのは、相手のためを思って何でも引き受けることが必ずしも親切ではないということでした。時には「NO」と言うことが、相手にとっても、自分にとっても、そして職場全体にとっても良い結果をもたらすことがあるのです。


INFP-Tとして生きていくために

私たちINFP-Tは感受性が強く、他者の感情に敏感です。それは素晴らしい特性である一方で、適切な境界線を引くことが苦手になりがちです。
でも、境界線を引くことは決して冷たいことではありません。むしろ、長期的に良い関係を築くために必要なスキルなのです。
今では、あの事務員さんとも適度な距離感を保ちながら、必要なときには協力し合える関係を築けています。私自身も、本来の業務に集中できる時間が増え、仕事の質も向上しました。
職場での人間関係に悩んでいる同じINFP-Tの方がいらっしゃいましたら、「境界線を引く勇気」を持つことをお勧めします。最初は勇気がいるかもしれませんが、きっとあなた自身と周りの人たちのためになるはずです。
人は人、自分は自分。でも時には助け合う。そんなバランスの取れた関係性こそが、私たち内向型の人間にとって心地よい環境なのだと思います。

 

※ちなみに、ずけずけいってくる事務員さんとは、あくまで業務中にそういう態度をとられるのが鬱陶しいだけで、休憩時間や飲み会などで隣り合わせる分には、その図々しさがかえって座持ちがよくて、むしろいいと思っています。

 

この世は地獄なのに、なぜ健康に長生きしようとするのか?——INFP的生存への問い

INFP田中です。

「この世は地獄だ」——そう感じたことはありませんか?

日々の仕事、理不尽な社会、疲れきった身体、やり場のない感情。

そんな中で、ふと疑問が浮かびました。

この“地獄のような世界”で、健康的に、長生きしようとする意味って、なんなのだろう?

 健康=善という前提を疑う

世の中では「健康に生きること」は正義のように語られます。

食事に気をつけ、運動し、禁酒し、定期検診に通い、寿命を延ばす——。

でも、それって本当に「幸せ」につながっているのでしょうか?

まるで、無期懲役を少しでも快適に過ごすための「自己管理」に思えてくることもあります。

 仏陀はゴマ一粒で生きた

仏陀が修行中に「ゴマ一粒で命をつないだ」という逸話があります。

それは「少食の健康法」ではなく、執着を捨て、生に対する姿勢を整える話です。

私たちもまた、日々の“食べすぎ・飲みすぎ・情報摂りすぎ”で疲れきっています。

体は常に忙しく、休む暇もありません。

それなのに「長く生きよう」とするのは、果たして自然なのでしょうか?

 INFP的視点:意味なき延命は苦痛

INFPは意味がないことに耐えられません。

「ただ生きていくこと」「ただ延命すること」が目的になると、

心がすり減り、感性が鈍っていきます。

だからこそ、INFPにとっては、

  • 「誰かの心にそっと灯をともすため」
  • 「静かに世界と折り合いをつけるため」
  • 「自分の中の平和を守るため」

そんな“やわらかな意味”がなければ、健康や長生きすら、苦しみの延長にしか思えないのです。

地獄に射す「裂け目のような光」

それでも、時々ふっと訪れる瞬間があります。

夕焼けの色がきれいだったとか、

誰かのひとことに救われたとか、

コンビニの店員さんの笑顔がなぜか沁みたとか。

この地獄のような世界に、ほんのわずかですが「裂け目のような光」が射すことがあるのです。

その光をもう一度見るために、

今日も少しだけ、生きてみてもいいのかもしれません。

おわりに

健康的な生活は「義務」ではなく、「静かに生きのびるための工夫」だと捉えれば、少しだけ心が軽くなります。

この世界が地獄のように思える日もあるでしょう。

でもそんな中で、「自分らしく在ろう」とするあなたの姿は、それだけで意味のあることです。

意味のない世界で、自分なりの意味を紡いでいく。

それこそが、INFPという生き方なのかもしれません。

【INFPの職場モヤモヤ記】優しさが踏みにじられたコピー機の前で

こんにちは、INFP田中です。

今日は、ちょっとした出来事がきっかけで、昔の記憶まで一気に蘇ってしまった話をしようと思います。

あれは、職場でのこと。
その日私は、自分の担当ではない会議資料をコピーしていました。部署全体のための仕事。誰かがやらなきゃいけない、でも誰もやっていない――なら、自分が動くしかない。そんな気持ちでした。

ところが、そのときです。

近くの席にいた事務員さんが、急に私に向かって言いました。

「田中さん!私は忙しいの!自分の印刷物は自分でお世話して!」

思わず、固まりました。
まるで「自分のことくらい自分でやって」と突き放されたような言い方。

 

正直、腹が立ちました。

でもその感情の奥にあったのは、怒りというよりも――悲しみでした。

 

私がコピーしていたのは、自分の資料じゃなくて、会議つまり部署全体の資料。

 

しかも、そのコピー機は彼女の席のすぐ近くにあり、印刷された紙を時々取り除かないと、ぐちゃぐちゃになってしまうタイプの製本仕様。

 

「ちょっとくらい、察してくれてもいいじゃないか」

 

そんな思いが、胸の奥でぐるぐると渦巻いていました。

 

 

しかし、

思えば私は、その事務員さんに甘えていたのかもしれません。
忙しい中で「気づいてくれるだろう」「助けてくれるだろう」という淡い期待が、どこかにあった。

でも、その期待は裏切られ、むしろ叱責として返ってきた。

 


自分の中の“善意”が、他人の目には“押し付け”に見えることもある――それを思い知らされた瞬間でした。

 

 

 

そして私は、ふと、幼少期のことを思い出しました。

 

 

 

■小さな仕返しの連鎖と、INFPが抱える“説明できない悲しみ”


コピー機の前で事務員さんに怒られたあの日、私はなぜあんなに心を揺さぶられたのか。
その理由を考えているうちに、幼い頃のある記憶がふとよみがえりました。

 

小学生のとき、友達と遊んでいて、ふとした拍子に肩がぶつかったことがありました。
別にわざとじゃなかった。けれど、相手は「おいっ」と軽く押し返してきた。

それに対して私も、「なんだよ」と少し強めにやり返す。
すると相手もまた、少し強く。

 

ぽんっ、ぽんっ、ぽんっ――

 

小さなやり返しが、次第に強度を増し、やがて本気のケンカになっていく。

 

あの時の感覚と、今の職場のやりとりが、どこか重なったのです。

 

最初は、たった一言。

 

でもその一言が「何かを押し返された」という感覚になって、
その感情をそのまま飲み込めない自分がいて、
心の中で、静かに“仕返しの連鎖”が始まってしまう。

 

もちろん、私は何も言い返しませんでした。
でも心の中では、「私は人のために動いてただけなのに」と繰り返し反芻していました。

 

INFPって、こういうとき“反撃”よりも“内省”に走るんですよね。

 

相手の言葉の裏を読み、
「きっとあの人も余裕がなかったんだ」と理解しようとして、
それでも自分の感情は処理しきれずに残っていく。

 

怒りじゃない。
でも、モヤモヤとした説明できない悲しみ。
それが胸の奥に、じわりと滲んでいく。

 

 

こういう出来事があると、私はいつも思います。

 

きっと人って、自分の中の「過去の痛み」が今の言葉や反応に乗っかってくるんだなって。

 

たった一言で傷ついてしまうのは、
その一言の背後に、自分でも気づかない「昔の傷」が潜んでいるからなのかもしれません。

 

そしてそれは、きっと誰にでもあるもの。

 

 

これからも私は、きっと誰かに傷つくことがあるでしょう。

そして、誰かを知らずに傷つけてしまうこともあると思います。

 

 

でもせめて――
そんな時に、自分の中に浮かぶ感情を無視せず、
静かに見つめ直せる自分でいたい。

 

 

怒りに飲まれず、でも悲しみを押し殺さずに、
「それでも私は私のままでいいんだ」と思えるように。

 

 

それが、私のようなINFPが、
この複雑な社会をなんとか生き抜くための、小さな祈りなのかもしれません。

 

45歳目前で気づいた身体のSOS―毎日のお酒と向き合う私の選択

アルコールに頼る日々から抜け出したい―45歳目前の私が気づいた身体のSOS

 

INFPーTの田中です。 毎日の疲れを癒すために、缶チューハイ(7%、500ml)を2本飲む生活を続けていました。

「これくらいなら大丈夫」そう思っていたのですが、45歳を目前にして、身体が発するサインに気づき始めました。

飲んでいる最中は気持ちいいけれど...
お酒を飲んでいる時間は確かに心地よく、一日の疲れが和らぐような感覚があります。

 

しかし、翌朝のだるさや、ダラダラと長時間寝てしまう自分に違和感を覚えるようになりました。20代、30代の頃とは明らかに違う身体の反応です。感覚的には、突然、とまではいかなくても急激に、という印象です。

 

実際のアルコール摂取量を計算してみると


缶チューハイ7%、500ml × 2本の純アルコール量は約56g。厚生労働省が推奨する「節度ある適度な飲酒」の目安は1日20g以下ですから、実に2.8倍もの量を摂取していることになります。

350ml × 2本に変更しても約39g(基準の約2倍)。「少し減らしただけ」と思いがちですが、それでも健康リスクが無視できないラインです。

 

身体が教えてくれる「慣れ」の正体


毎日の飲酒によって確実に起こる変化

 

  • アルコール耐性の上昇

同じ量では満足できなくなり、自然と量が増えていく危険性があります。

睡眠の質低下 寝つきは良くなっても、深い睡眠が妨げられ、結果として長時間寝ても疲れが取れません。

  • 肝臓への慢性的負担

毎日56gのアルコールは確実に肝臓を酷使しており、将来的な健康リスクが蓄積されます。

  • 精神的依存の芽生え

「飲まないと落ち着かない」という感覚が、無意識のうちに習慣化されていきます。

 

45歳前後で感じる身体の変化


代謝が落ち、筋肉・肝臓機能も低下傾向にある40代。同じ量のお酒でも、20代30代の頃より回復に時間がかかり、翌日の疲労感が長引くようになります。「飲んでいる最中は良いけれど、後がしんどい」という感覚は、身体からの重要なメッセージなのだと痛感しています。

 

「あればあるだけ飲む」自分を知る


ウイスキーの大容量ペットボトル買いを検討した時期もありましたが、自分を客観視すると「あればあるだけ飲んでしまう」タイプだと気づきました。缶での購入は、実は自分を守る重要な「防波堤」の役割を果たしていたのです。

 

無理のない節酒プランの実践


完全禁酒ではなく、現実的な調整を心がけようと思います。

■週1回の休肝日設定

胃と肝臓の回復時間を確保したい。そうすると翌朝のスッキリ感を実感できる、と飲酒仲間はいいます。

■350ml缶への段階的移行

500ml × 2本から350ml × 2本へ。アルコール量を25%以上カットしながら、満足感は維持できます。

■ノンアルコール飲料の活用

「2本目はノンアル」の日を設けることで、飲んだ気分を味わいながら肝臓を休ませられます。

■代替アイテムの導入

  • ノンアル焼酎ハイボール風
  • 強炭酸水(レモン風味)
  • 温かい白湯や生姜湯

 


習慣化のための小さな工夫

私はまだ実践できていませんが、取り組んでいこうと思います。

 

■飲酒記録をつける

スマホのメモ機能やアプリで可視化することで、飲む日と休む日のバランスが取りやすくなるそうです。

■飲む時間の固定化(20時以降)

早い時間から飲み始めると量が増えやすく、睡眠の質も落ちるため、時間制限を設けています。

 

■新しい入眠ルーティンの確立

風呂→炭酸水→就寝のパターンを作ることで、アルコールに頼らない快眠習慣を身につけられるそうで、やっていきたいと思います。

 

〈アルコールから距離を置けた知人談〉

週間スケジュール例
月曜:350ml × 1本(週の始まりは軽く)

火曜:休肝日(ノンアルで調整)

水曜:350ml × 2本(リラックス日)

木曜:350ml × 1本(翌日への配慮)

金曜:自分を労う日として適量 週末:運動後の楽しみとして、でも上限は意識

 

なるほど、、これは酒飲みにはハードル高いです、読んだだけでぞっとしますが、取り組んでいきたいと思います。

 

気づいたこと、学んだこと


「なんか最近、だらだら寝てしまうな」「でも飲む時間はやめたくない」

この揺れる感覚こそ、身体と心が方向転換のタイミングを教えてくれている瞬間でした。ただ、少し量を減らすだけで、翌朝の目覚めや気分の軽さに変化を感じることができます。

 

私たちINFPは内面の変化に敏感です。

身体が発するサインを無視せず、自分らしいペースで健康と向き合うことが大切だと気づきました。完璧を求めず、小さな変化を積み重ねていく姿勢が、長期的な健康維持につながると信じています。