気負って話す、テンション上げて話すと話が続かないらしい
こ、(はぁはぁ…)ぉ、こんにちは、コミュ障やっていますか?
35歳にして、初めて鼻毛に白髪を発見してしまい、ああ、諸行無常、自分は確実に老いと、そして死へと向かって生きているんだと噛みしめて思った次第です。
人は生まれたその時から死、終りへと歩を進めていて自分が着実にそこに向かっていることを知っているのになぜこうもがっかりとするのでしょう。 それはコミュ障でこの世が嫌だ嫌だといいながらもやはりどこか未練があるからですね。 やはりどこかに希望を求めているのです。 ちなみに、この世は苦しみの世界なのでそれを逃れることはできません、できるとすればそれを紛らわすために楽しみを見つけることでしか対処できません、説教スマソ、的な。
さてて・・・・!
今日の説法はアレです。 話し方講座です。
先日コンビニにふらっと立ち寄って雑誌コーナーを眺めていますと、例のごとく雑談上達本が掲示されていました。 最近、この手の本の取り扱いがコンビニも多いのです。やはりコミュニケーションに悩む人たちは多いってことでしょう。
で、パラパラっとめくったさきに書いてあったこと、それが、
ムリにテンション上げたり、気負って話すと相手にそれが伝わって会話がぎこちなくなりつながらなくなる、ということでした。
コレ、ありますよね。
コミュ障なのに、変に相手に気を遣い自分からガシガシと質問しまくったり、話しかけようと気負うがあまり、相手の話にうまくリアクションできなかったりと。
でもやっぱり、こういうのって話し相手に伝わって話が盛り上がらないそうです。
コミュ障やっていますとよくあると思いますが、
話をつなげようと努力しているのに、どこかのタイミングでブツッて切れて、
「あ、もうこのあと何もない」という、
まるで映画のあとのエンドロールに続くBGMすらないようなブランク感、深夜にTVが全部終わったあとの、あの無慈悲なピー音とトリコロール的な無味乾燥なタテジマ映像からの砂嵐の退廃感が、空気となって流れるのです。
もう、世界の果ては滝でその先は何もありまへん、というピリオド感が、コミュニケーションの合間合間に訪れることでしょう。
でもその瞬間死ぬわけにはいきませんから、輪廻転生を待つさまよえる魂のごとく呆然とそこにたたずむしかなく、でもやがてその時間は無情にすぎゆくという。
こういうのは、変に気負うからダメということです。
ひたすら自然体でいることが大事だということのようですね。 おおっとそんなの知っているぜ、でも自然体でいても結局、ただ焦り具合が減るだけで会話のコンテンツは思い浮かばねーぜという反論があるでしょう、納得です。
でも、ただ焦らずボーっとしている時間があってもいいのでしょう。 下手に気を遣って変な質問を投げるよりは、よっぽど。
究極の原因は沈黙を恐れていることにあり、もっと掘り下げると相手に退屈をさせ、暗い人間だと思われるのが怖いのが本音だと思いますが、まぁそれでもやっぱり会話するときは気負わず、脳を遊ばせるくらいのほうが自然な会話のネタが思い浮かぶということなのではないでしょうか。