ソーシャルディスタンスがブラックな環境にいると感じられない
世の中、探せばブラックな環境は多々あって、しかしそれは外部から指摘されないときづけないものでもあります。 当の本人たちでうっすら気が付いていても、でも、それでも社会的通念上の常識的な観念が獲得できていない場合があります。
私はすっかりそのブラッキーな環境に身を置いているためか、今日久しぶりにスーパーで会った知人に、ちょっとテンションが高鳴り(うれしいとかではなくて、この運命的な?再会、思わぬタイミングに動転して、といったほうがいいかもしれません)、
近寄ろうとすると、
「おっと、ソーシャルディスタンス」
と一発ギャグのように彼は手刀素振りで距離を演出し、バリアを張ったのでした。
その瞬間ハッとしました。
そうか、彼らのようなホワイティな環境下ではそういうコロナ禍に対する意識が高く、つまりは社会的な空気をくみ取ったマネジメントがなされている、それが徹底されているからこそそうやって自然に、メディアが言うようにさっと主張できるのだと思いました。
一方で私が所属している会社のように、緊急事態宣言がなされても逆にどうやって正当な論理で経済活動をやれるだろうか、と思案している組織にあっては、そういう観念は身につかず(それでも社会的なイメージも懸念してマスクや検温チェックの体制はとっているが、根本の考えがそうではないので表面的にならざるを得ない)、自然とコロナに対する警戒心も身についていないのではないかと、自身を疑ったのでした。
これは会社に対する疑念ではなくては、要は社会人といえども所属している組織の空気が自身の常識となりますから、そのあたりの危惧があったのです。