INFP型・HSPのブログ

MBTi診断INFP型でHSP、40代家庭持ち営業マンの日記

INFP怖い

 INFPの読者さんより投稿頂きましたのでご紹介させて頂きます。

INFPは怖い、とも言われるようですが、それは相手を威嚇するような怖さではなく、何を考えているか分からないような怖さなのかもしれません。

▽▽

INFPの怖さは太宰治人間失格」にある


太宰治の名作「人間失格」を読んだとき、これは自分だ、と思いました。


毒も盛られていますが、


こんなにも、異様にこの世が息苦しいと感じるのはINFPたる自分だけじゃなかったんだ、と勇気づけられた作品でした。同時にINFPの怖さといいますか、闇を確認できた次第です。


INFP型である私は人から怖いと思われているか?

私の場合は、まず人から怖がられるようなことはありません。どちらかといえば無口で大人しく、取り乱すこともないからです。挑発されない限りまず自分から相手に対して怒りの感情を出すことをしません。そのため、舐められることの方が多く、またいじられるようなキャラです。(※いじめられる、ではなくて、いじられる、です)


なので怖いオジサン像とはとてもかけ離れています。


普段大人しい人がキレたら怖い、という表現


これもありません。私がキレる状態になることは、妻に身の回りのことや私の挙動について口うるさく言われ続けて、私の我慢の尾が切れたときだけですが、普段大人しい私がキレても大して怖がられていません。

 

 


INFPの怖さは何を考えているか分からないということ


おそらくですが、INFP型の怖さは何を考えているか分からないことかもしれません。


暗くて闇を抱えているような、絶望を抱えて生きている。危害を加えられるような怖さではなくて、おぞましさを感じるような闇を抱えていることに対する嫌悪感のことを怖いというのかもしれません。


そういう暗さが、見事に描写されているのが、太宰治の文学作品「人間失格」です。

 


人間失格のあらすじ、引用と説明


恵まれた家系に生まれた主人公でありながら、内気な性格であるがゆえに真人間として平凡に生活することができず、いつの間にか悪い友人に染まり、アルコールに溺れ、そこから転がり落ちるように堕落していき、女にうつつをぬかし、最後は薬物で社会生活が送れなくなってしまうというような話です。


肝なのが「気弱で人見知りな内気人間」なのに、それを隠すように「道化師(わざとおどけたりふざけたりして明るい人間を気取る)」として生きるという、暗い暗い性格の持ち主であるということです。


ただの引きこもりニートなコミュ障、というわけではありません。


表向きは内気な自分を隠して明るい人格を演じ、でもそれに疲れ厭世観を抱きながらも、やることはやる(とっかえひっかえ女子と付き合います)という、なんともめちゃくちゃな人生。


 真に病んだ暗さを感じる、それもINFPやHSPならこそ分かるような毒が盛られている内容です。


以下、本文の中から共感した文章の引用集です。

 

 


●人間に対して、いつも恐怖に震いおののき、また、人間としての自分の言動に、みじんも自信を持てず、そうして自分ひとりの懊悩は胸の中の小箱に秘め、その憂鬱、ナアヴァスネスを、ひたかくしに隠して、ひたすら無邪気の楽天性を装い、自分はおどけたお変人として、次第に完成されて行きました。


この根暗ぐあいが痛烈です。 人が怖くて本来なら引きこもりたいのに、ホントの自分を貫いて嫌われる勇気(暗い自分をありのまま見せることによる敬遠の恐怖)がなく、周囲に迎合すべく自分をおチャラけたキャラに見せ、演じるという。 ああ、泣きたくなるほど共感します。


なんか人から「なんか面白いことしてよ」みたいなことを無言の空気感で求められているような感触に耐えられず、その強迫観念からおどけるという、そういう癖はよくわかります。

 


●「葉蔵は?」と聞かれて、自分は、口ごもってしまいました。
何が欲しいと聞かれると、とたんに、何も欲しくなくなるのでした。


⇒このシーンは、主人公である葉蔵の父親が、出張土産に何か買ってきてあげようと子ども達(葉蔵とその兄弟)に欲しいものを聞いているシーンです。


これ、私の幼少期もそうでした。 クリスマスとか誕生日が近くなるとこういうことを聞かれることが多かったのですが、何か自分のために手間をとらせるというような、迷惑をかける気がして、気後れしていました。 親がサプライズしてオモチャとか買ってきたときには、ああ負担をかけさせてしまった。。と悔やむ自分がいたのを覚えています。 内気さとは関係ないようでいて、 この気弱で甘え知らずなところが人生の生きづらさを構成する気質のひとつであるともいえるでしょう。

 


●イヤな事を、イヤと言えず、また好きな事も、おずおずと盗むように、極めてにがく味わい、・・・


そう、断れないです。 相手に迷惑をかけたくない、 いや本質はそんな気高いものではなくてイヤということによって相手の期待をポッキリと折ることで悲しませることがまず負担に感じてしまうこと、そして断ってしまうことによって相手から嫌われてしまうのではないかと感じてしまいます。 

●あるいは生き得る自信を持っているみたいな人間が難解なのです。


いつも元気で明るく社交家なあの人のこと、どうしてあんな振る舞いができるのか理解に苦しむ、とても眩しい、めまいがしそうになります。

 

●俳優にとって、最も演じにくい場所は、故郷の劇場であって、しかも六親眷属全部そろって座っている一部屋の中にあっては、いかな名優も演技どころでは無くなる・・・

 

これは暗いです。外に出れば仮面をかぶった面白い明るい人間を演じることができても、親や親族の前では素の自分から逸脱できない、やろうとしても強力な心理的なストッパーがおりてまるで鎖で体をがんじがらめにされているがごとく反応できないあの境地。 本当はおとなしい性格なのに、明るく演じれるタイプの人なら共感できると思います。

 

 

●自分の人間恐怖は、それは以前にもまさるとも劣らぬくらい烈しく胸の底で蠕動していましたが、しかし、演技は実にのびのびとして来て、教室にあっては、いつもクラスの者たちを笑わせ、・・・


明るく演じているうちにだんだんスキルが身についていきます。 やはり心でどう思っていても口と体を動かしていればおのずと社会的なスキルが身についてくる、ということでしょう。 


ちなみに、この成れの果てが「芸人」というのような気もします。 芸人には根暗でプライベートは人見知りなのに、という方が結構いますが、まさにこれではないでしょうか。

 

 

●女は、男よりも更に、道化には、くつろぐようでした。 (…中略…)
男はさすがにいつまでもゲラゲラ笑ってもいませんし、それに自分も男のひとに対し、調子に乗ってあまりお道化を演じすぎると失敗するということを知っていましたので (…中略…)
女は適度という事を知らず、いつまでもいつまでも、自分にお道化を要求し、自分はその限りないアンコールに応じて、へとへとになるのでした。


分かります。 女子、彼女たちの「なんか面白いことして退屈紛らわせてよ」オーラはすごくビリビリと感じてしまいます。 なんかもうマジメなトークは一切しちゃいけないのではないかというあの緊張感。2・3回の返しでボケなくてはいけないのではないかという焦り。 だから私もよく必死でボケようとして、何を言っているかチンプンカンプン、しどろもどろ、なことがよくあります。会話がつながらないんですよね、そして疲れ果てる。


でも実際はそれは自意識過剰だと思います。 いや、多分見栄を張りたい自分もいるのでしょう、心の奥底で。 特に女子に対しては、にぎやかな自分を演じて気を誘いたいという密かな願望もチラホラその本能に準じて発生してしまうのではないでしょうか。

 

 

●これこそ胸底にひた隠しにしている自分の正体なのだ、おもては陽気に笑い、また人を笑わせているけれども、実は、こんな陰鬱な心を自分は持っているのだ、仕方が無い、


時折、ふと思います。 こんなカリソメの自分を演じていて、本当の自分はそうじゃないのに、ああ、疲れる、どうして社会とはこんなに鈍く重い重力が働いているんだと。


そのとき人を笑わせ喜ばせたとしても、次もその期待に応えるべくバイタリティ削られるんだというプレッシャー、となんか自分だけが強力な足かせをハメられているようなハンデ感すらあります。

 

 


●四、六時中、くらだらないおしゃべりを続け、あの、二人で歩いて疲れ、気まずい沈黙におちいる危惧が、


あります、やむを得ず複数で歩くシーン。 乾いた会話をしながら、盛り上がらなかったら必死で頭をフル回転させて話題を提供、でもいよいよ話題も尽きて何も出てこない、、歩くしんどさよりも気まずいことのしんどさよ。

 

 

●世の中の人間の「実生活」というものを恐怖しながら、


興味の対象が人とズレているせいなのか、人と喋れたとしても「あ、違う」と疎外感を感じます。 それはつまり他人の「実生活」に共感できず、それらに溶け込めないという恐怖を意味するのかもしれません。

 

 

●どうぜ、ばれるにきまっているのに、そのとおりに言うのが、おそろしくて、必ず何かしら飾りをつけるのが、自分の哀しい性癖の一つで、


NOと拒否する場面でよくありますが、相手を傷つけたくない、そして嫌われたくないところから虚言癖のような様相を呈するのです。


簡単に言うと、ハッキリとNO!を言えずに、断る文句をウソでもいいから考えるというものです。 いやもちろん、断ることに非が無い場合であっても、なんかそれらしい断り文句、もちろんコミュ障なのでそういうウソもヘタクソなのですが、それでも添えてしまうという悲しさです。


もちろん、断ったあとも変な後味の悪さが残って数日モヤモヤすること間違いなしです。

 

 

●いっさいの付き合いは、ただ苦痛を覚えるばかりで、その苦痛をもみほぐそうとして懸命にお道化を演じて、かえって、へとへとになり、わずかに知合っているひとの顔を、それに似た顔をさえ、往来などで見掛けても、ぎょっとして、一瞬、めまいがするほどの不快な戦慄に襲われる有様で、


友達がいない、できない、じゃなくてそもそも付き合い自体が面倒なので、結果、独りぼっちになってしまいます。 演じれるタイプの人の場合は、見かけ上の友達みたいな知り合いはいると思います。


しかし、必死で相手を楽しませるがために面白いヤツを演じているなんて誰も知らない、また知っていたとしてもどれだけしんどい思いをしながらやっているか誰も知らないんですね。 身を削るような思いで人と接ししている、だから、人と会うとなると、それが誰であれ消耗してしまいます。


結果、外出先で見掛けても向こうが気づいてないと分かればサッと逃げてしまうクセが出てしまいます。もう視界の片隅に入った瞬間に逃避センサーが働くような過敏さゆえに、似た人にでも会うと、顔を背けてチラっと横目に確認する感じでしょうか。

 

●人に好かれる事は知っていても、人を愛する能力に於いては欠けているところがあるようでした。


ずるいんです。 人に好かれるというか迎合してしまいます。自分を折り曲げててでも人にへつらってしまう。卑屈な魂がそうやっていつしか自分を操り人形のごとく仕上げてしまいます。

 

 

●他人の家の門は、自分にとって、あの神曲地獄の門以上に薄気味わるく、その門の奥には、おそろしい竜みたいな生臭い奇獣がうごめいている気配を、


これはINFPあるあるではないでしょうか。 人の家って怖いです。 厳密には玄関先でその先に起こりうる事態を、普通の人から見れば何を思案する必要があろうかという事態なのですがー、 「ピンポーン、 あ、あ、あの、○○ですが・・・」 ましてや本人ではなくその親族が出てくるかもしれないと思うと緊張して卒倒しそうになる例のアレです。

 

 

●あなたを見ると、たいていの女のひとは、何かしてあげたくて、たまらなくなる。・・・・・いつも、おどおどしていて、それでいて、滑稽家なんだもの。・・・・時たま、ひとりで、ひどく沈んでいるけれども、そのさまが、いっそう女のひとの心を、かゆがらせる。


コミュ障でもこういった視点でモテルこともあるかもしれません。 おどおどしているとモテないというのが定説ですが、これもまた見せ方次第かもしれません。 ときおり面白いヤツを演じているとそのギャップに萌えてくれる異性はいるかもしれないという淡い期待の話です。 

 

●恐怖すればするほど好かれ、そうして、こちらは好かれると好かれるほど恐怖し、皆から離れて行かねばならぬ、


その人を怖いと思うのに避けて通れない時、演じれるタイプの人はその人への対策として、(緊張して変な汗をかきそうな状態なのに)必死で頭をフル回転させ神経を使ってイイ人・面白い人を演じます。


そうやっていくうちに誰からも変に好かれる人物になっていくことも事実です。 


器用だとさらに、その演じている自分を本物に見せることができてしまうため、 好かれれば好かれるほど周囲の期待が重くのしかかり、より本当の自分を見せることができずしんどい思いをすることになるという負の側面もあります。


このレベルに行くとだいぶ就職においても「サラリーマン」とかにはまず憧れず、一人で黙々とできそうな工場での作業とか新聞配達とか清掃員とかに憧れるようになってくるのではないでしょうか。

 

 

●「シゲ子はね、シゲ子の本当のお父ちゃんがほしいの」
ぎょっとして、くらくら目まいがしました。敵。 (…中略…)他人、不可解な他人、秘密だらけの他人、シゲ子の顔が、にわかわにそのように見えて来ました。
シゲ子だけは、と思っていたのに、やはり、この者も、(以下略)


このシーンは、主人公と交際している女性の連れ子である「シゲ子(←主人公のことをお父さんと呼ぶくらいなついていた)」という娘と主人公が会話している時にふとシゲ子が「本当のお父さんに会いたい」と本心をそのピュアな幼心から漏らした言葉を発するシーンなのですが、 これを聞いて、一気に怖気づいてしまう繊細さ。


普通なら「寂しいな」くらいで終わるのが、もう小娘にも愛されない、いやそんなことは決してないのがそれまでのやりとりからも分かるはずなのに、なんか嫌われてしまったかのような恐ろしさを覚え、気まずくなってその後もどう接していいか分からないという感覚。


私ももしそのシチュエーションならきっとそう感じます。 こども相手にもコミュ障ぶりを発揮してしまう自分って、本当に情けなくなりますが。 

 

 


ああ、自分はなぜこうもう勇気がないんだろう、バカなんだろうと。


20代後半くらいから人付き合いの中、周囲も家庭を持って子供ができてくるので、小さい子どもや相手の配偶者とかと接する場面なんかも増えてきますが、まぁ固まって何もしゃべれない自分がいます。

 

 

●ああ、人間は、お互い何も相手をわからない、まるっきり間違って見ていながら、無二の親友のつもりでいて、一生、それに気づかず、相手が死ねば、泣いて弔詞なんかを読んでいるのではないでしょうか。


これは、傍からみていて本当にそう思います。 みんな仲良しごっこなんだろ? ホントはファッションの一部として友達付き合いしてんだろ?と。


普通の人たちの気持ちが分からないからこういう気持ちになるのでしょう。 主観でしか考えられないところもまた特徴なのかもしれません。

 

 

●「お父ちゃんはね、お酒を好きで飲んでいるのでは、ないんですよ。あんまりいいひとだから、だから・・・・・」


そう、ストレスがハンパないのでこういう酒のような快楽ツールに溺れてしまいます。 飲みたくて飲んでるのではないです。 もっというと酒自体ももともとはそんなに好きじゃなかったけど、飲み会とか出席していると喋ることがないので、ただひたすら飲むしかない、食べるしかなく、それも食べるのは腹が張っても、飲むのはチビチビでもいいから続けることができます。 そうしていくうちにいつの間にかアルコール耐性がついて酒に依存するようになっていった私です。


  

 

●自分は世の中に対して、次第に用心しなくなりました。世の中というところは、そんなに、おそろしいところでは無い、と思うようになりました。


たしかにある程度生きていくと、繊細な私でも気づくことがありました。

 


ああ、思ったほど悪いことって起きないな、困難もたくさんあったけど何とかなってきたよなと。


でも、これは悟って内気さを克服した、という境地ではありません。


ああ、残りの人生も、結局は乗り越えられるかもしれないけど、降りかかってくる苦難を思うと、鬱屈とせずにはいられない、そんな気分です。

 

 

●そうは言っても、やはり人間というものが、まだまだ、自分にはおそろしく、店のお客と逢うのにも、お酒をコップで一杯ぐいと飲んでからでなければいけませんでした。

 

やっぱり、酒に頼らないと普通に人と喋る度胸すらない、こういう状態です。 そしてまた、飲みすぎてアルコールにハマっていくという負の連鎖。

 

 

●心のどこかで、幽かな、けれども必死の抗議の声が起こっても、しかし、また、いや自分が悪いのだとすぐに思いかえしてしまうこの習癖。

これが自分のほうが客の立場であって、お店で買い物をしたときに店員側に明らかな非があっても、言えない、言う度胸がないというシチュエーションなんかに遭遇するとことさらに感じます。


正当なクレームが言えない情けなさ。


でも必死で自分をさとすんですよね、「怒るのはカッコ悪い、人間性が未成熟だ」と。でもそれはクレームの一つも言えない自分への慰めなのです。

 

 

●自分の不幸は、拒否の能力の無い者の不幸でした。すすめられて拒否すると、相手の心にも自分の心にも、永遠に修繕し得ない白々しいひび割れができるような恐怖におびやかされているのでした。


断れないのです。


人から頼み事をされた時は当然のごとく「はい」しかいいませんし、もっというと、「なんか面白いことやって、退屈させないで」みたいなオーラを相手が放っているとそれを過剰に察知して無駄にテンションあげて喋って消耗したりとか。


こういうことを、自分の本心に従って辞めてしまったとき、


相手に恨まれそう、ひいては社会から非難されそうな気がして、胸をギュッと押しつぶされるような怖さと緊張感があるのです。

 


以上、長々と失礼しました。


しかし、冒頭申し上げたように、人間の暗さや闇が盛り込まれていることが確認できたと思います。  


補足ですが、著者の太宰治がこの人間失格を書き終えた一か月後に自ら命を絶ってこの世を去っています。だからこそ彼の遺書にあたる作品だとも言われているのですが、こういうところも、怖さのひとつでしょう。


ただ、最後の主人公 葉蔵の締めくくりを見ると必ずしも闇ばかりでもありません。

 

いまは自分には、幸福も不幸もありません。 ただ、一さいは過ぎて行きます。 自分がいままで阿鼻叫喚で生きて来たいわゆる「人間」の世界に於いて、 たった一つ、真理らしく思われたのは、それだけでした。

この終わりなき生き地獄も、最後はこういう境地で締めくくられるのかもしれません。
△△


投稿ありがとうございました。
INFPの抱える辛苦が込められていますね。他の性格タイプとの相性、という以前にこれはどのタイプと付き合うにしても苦しさを覚えるかもしれません。でも清廉潔白なINFPさんならいつか望みの生活を手に入れることができるでしょう。