向いてもいない仕事に向き合う日々で培われた惰性
久しぶりの更新となりました。なんとか私は1年、生きていました。厄年を痛感し、果たして自分はこの危機を乗り越えられるだろうかと、、そう思いながら後厄を生きています。男の厄年の中でも40歳のやつは大型で大厄です。そんな先入観抜きにハードな年でした。それもあと2か月。あと2か月で厄は抜ける。
しかし、世の中はきっとそうも簡単ではなくて、この後も苦難はあるでしょう。
昔の結婚のスピーチであったように、人生は、上り坂、下り坂、まさか、です。
そう簡単に乗り切れるわけなんてないでしょう。
でも、よく頑張った。自分を褒めてやりたいです。
42歳になった今の私はいくぶんか図々しくなることに成功し、以前よりも図太くたくましく生きていけているように、そう、客観的に感じています。
もはや目指すステージもなければ、なりたい自分像もない。
ただただ、自分と家族、母親、父親、兄弟妹の幸せと、じいちゃん・ばあちゃん、ひいては先祖の冥福と、今の仕事がうまくこと、会社の上司に怒られないことを祈って日々を、生きる、そんな感じです。
向いていない仕事をやり、
つまりは、毎日が苦痛で、月曜日は魔物のように感じられるこの日々も、
自分に課せられた使命、
きっとこのカルマが浄化され次第、きっとそれは平穏へと向かうのだろうと自分を説得する日々、それもまた、非効率的ではありますが、悪くはないでしょう。
でもそうして培われた惰性で生きる術もまた私は身に着けました。
永遠に繰り返すようなこの地獄のようなルーティンもまた、一つの人生、色、味、、いわばストーリーです。
この惰性の生活もまた悪くはないのではないか、この日々の作業に追われる仕事人生も決して無駄ではなく、この惰性の延長こそが実は生きるということなのではないか、人は惰性をいかにして自分なりに意義を見出せるかが、その人生の価値なのではないか。
首題とは脱線しましたが、そうやって、命を紡いでいきたいと思いました。