心を通わすことができない、心を通わせる方法が分からない。
このブログは「喋ることができる、でも人見知りで、打ち解けることができにくい、またはずっと演じ続けている」という管理人が書いています。つまりは根暗です。
決して周囲から嫌われて浮いてしまっているわけではない、でも、どこにいても疎外感を感じ、どこにも自分の居場所がなくて、人と喋っていても退屈させてはいけないと焦ってしまうような、か細い魂、そういう繊細な方を見つめながら書いて来ました。
人間というものに、遠慮して近寄れない、また、近寄られることも苦手で、その姿は太陽の周りを一定の距離感で回る惑星そのものです。 普通、人と人との付き合いにおいて、最初はぎこちなくてもだんだんとその距離を縮めていい関係になれるものなのでしょうけども、対人関係が苦手な私には、眩しくてそれができないのです。
また、自らその距離を保っているのにも関わらず、付き合っている時に寂しさを感じるわがままな性質も合わせて持っているというこの矛盾、があります。
人と心を通わせることができない、
表面上はやれる、社会生活を送る上での必要最低限なことも言える、でも戯れるというか仲良くなるための会話ができないのです。
つまり、いくら相手と喋れども、心が通わない感じがするということです。
取り繕っている自分がいる
何かにつけて意見の対立を恐れては相手に迎合してしまいます。そのために会話にうねりがおきず、あたりさわりなく時間がすぎさっていくために、印象が残らないのだと思います。不快ではないが楽しくもない、簡単に言うと相手にとってつまらないのではないかと思います。
変に合わせて気まずくなる
例えば、聞き間違えて反対の意味の事を相手が云ったのに、それに合わせて生返事をして、あとから会話がかみ合わなくなってきて、どうやら、さっきのあの言葉は違うことを言ったんだと分かった時のとりかえしのつかないと思う気まずさ。こういうのがちょいちょいとボディブローのように重なって、距離があくとというのもあるでしょう。
無理に合わせない
もうどうでもいいと思います。正直、人生のあとのほうになって思うことは(これを書いたのは35歳の頃ですが、40歳になってみかえしてみると)、実にどうでもよい。
心を通わす人がいないならいないで、それはそれで気が楽なことです。
わざわざ貴重な自分一人の時間を奪われることがなくなることにつながっているのですから。
なので、決して悲観することではないと、そう思います。