話しかけても何か”音”がした感じに取られるコミュ障、この伝わらない悲しさよ
、、にちは。 こ、・・です。 あ、こんにちは!コミュ障研究家の安倍です!! ネットでも2回言わないと伝わらないこの感じ、リアル感あるでしょうか。自分でやってても悲しくなります。 こういうブログ作るのも精神がラクではありませんね、でも頑張るぞ!
ちなみにワタシは自称コミュ障ということで、コミュ障研究家の肩書でこういうブログをやっておりますが、おそらくワタシのこの感じをご覧になるに、
「ああ、こいつコミュ障気取りでウゼー、リア充な匂いぷんぷんするぜ〜。コミュ障のツラさも分からないくせに語ってんじゃねーよ」
と思う方もいるかもしれません。ワタシはこのブログで振れている通り、仕事は営業職ですし、家庭持ちですし、趣味はリア充の定番?でもあるフットサルです。
この肩書きだけ見ればもうとてもコミュ障とは思えないかと思います。
でも本音ではこうはありたくないのですね。 本当はひっそりと生きていたいのです。親戚付き合いも楽しめる方ではないですし、仕事もできれば倉庫とかで黙々と作業したいと思いますし、趣味もネットと読書ができればそれでいいと思えるタチなのです。
でもこの本能赴くままに生きていればワタシきっと数年後に化石になっていると思います。そういえば先日、今話題の「アナと雪の女王」を見ましたが、もうあの雪の女王であるエルサの気持ちが超分かるのですね。雪山に一人こもってひっそりと暮らすー。ウラヤマシイ限りです。
一方でどこか寂しくて本当は心のどこかでウィ〜ってやれる仲間を求めている、これがコミュ障の本性ではないかと思うのです。
どこかの誰かが人間が孤独を感じる時は一人でいる時ではなくて、他人と、それも複数の人といる時にそう感じるのだということを言っていますがまさにその通りなのでしょう。 コミュ障も何だかんだで人を求めつつそこに溶け込めない自分が嫌なのです。
まず話しかけることに抵抗がある。他愛のない言葉が掛けられないのですよね。意味はないが”つなぎ”となるコミュニケーションをかけられない、といいますか。
そしてその壁を破って話しかけても、声が小さかったり、ウマく言葉にならなかったりでゴニョゴニョッと喋ってしまい、相手に聞き返される、もしくは会話の流れからしてスルーされる、そんな感じでしょうか。
そしてこれこそがワタシが本日伝えたかったことなのです。
ほら見てください。
このブログのタイトルは話しかけても何か音がした感じに取られるコミュ障、この伝わらない悲しさよなんですが、その核心に来るまでこんなにかかりました。
ちなみにワタシは滑舌も悪いのでスマホの喋りかける機能にも上手く反応しません。 何か惜しい変換をするのです。本当はこのブログも音声入力で打てたらいいのでしょうけど、ワタシの滑舌ではまずグダグダになるので地道に手で入力しています。
それにしてもコミュ障って悲しいですね。この伝わらない苦しい気持ち、ツラいですよね。生きていることそれ自体がとても苦役でそれに加えて無理して仮面を被って生活しなきゃならないのです。
話しかけては 「あ、なんか今、音がした」みたいな感じで、まるで自分が透明人間であるような空虚感、そして自分がいてもいなくても変わらないのではないかという虚無感、これぞコミュ障の生き地獄なのです。
でもですね。
説教っぽくなるのですけど、多分それって少なくともこの日本人は大体の人がそう感じているのではないかと思います。だって世の中グチだらけですよね? ああ、生まれてきてヨカッターー!なんて言い続けている人なんでガチで少数派ですよ。 学校にいて明るいヤツも退屈凌ぎにリア充やっているわけですし、職場でも本当はしんどいのに口にするとさらにしんどくなるからせめて態度だけでもカラッとさせておこうと繕っているのが多数でしょう。
でも日本人はその本音をとにかく見せない。
我慢比べみたいな所があるのです。
だから耐性が弱い順に崩れてコミュ障コミュ障、ああもう人生オワタと投げやりになるのですね。
本当はみんながお互いに人生ツラい指数みたいなのが分かるセンサーが付いていればきっと自然に励まし合えるのでしょうけどね。
ということで、よく分からなくなりましたが、今日はボヤいてみました。