喋り出しがカブる、相手と同時に話す、タイミングがカブってぐだぐだ。。
人類は言葉を獲得しコミュティを獲得した、チキショー、そのせいで我々コミュ障たちははるか古代からの時空を経てコミュニケーションで苦労しているのです。 文明発展や進化、いや前に進むというのは何かの犠牲の上に成り立っているものなのでしょう。 車が走るためには温室効果ガスを排出する、効率的に電気を発電しようと思えば核(原子力)という危険な物質を使う、そして人類の文明が発展しようとするとき、コミュ障という社会のオリみたいなものが出る。。orz
でも、コミュ障が未だ現代に生きながらえている以上、それは生物学的に何か意味があるのです、それを信じていきていきましょう。 まぁ人見知り的コミュ障の社会学的メリットとしてまず第一に挙げられるのは、ケンカしない(できない)だから戦争しないということです。
さて本日触れたいのは、そんなコミュ障たちのコミュニケーションあるあるとして、誰かと二人きりになって、もう強制的に話さなくてはならなくなったときの「喋り出しがカブる、相手と同時に話す、タイミングがカブってぐだぐだ。。」現象についてです。
コミュ障というのは、コミュ障で人と会話するのが嫌いなくせに沈黙を恐れて頑張って話そうとすることが多いですよね。
そう、喋りたくないのに過剰に気を遣ってチンプンカンプンな話題を振ろうとしたり、早くリアクションしなくちゃということでチグハグなリアクションをとりがちなのです。
この原因ってすごくシンプル。
要は相手不在のコミュニケーションをしているからなのです。
つまり、自分の居心地の悪さを解消するためであったり、また相手に暗いと思われないため、もしくは面白い人と思ってもらいたいがためにコミュニケーション、いや厳密には相手不在の一方通行な発信ですからアナウンスとでも表現したほうがいいでしょうか、そんな感じなのです。
で、
ここに今回のテーマである相手と喋るタイミングがカブるという現象が起こるのです。
だったら結局相手も話すタイミングがこっちとカブっているわけだから下手くそということだよね? と思うでしょう?
そうではないのです。
もしあなたが会話の話だしタイミングがかぶったときに即座に「ああどうぞ」としてスムーズに会話をつなげられる場合は偶然の失策としてとらえられるのですが、おそらくこの文章をここまで読んでしまっているほどのアナタですからやっぱり薄々と気が付いていることでしょう。
「話がカブッたとき、ほとんど相手に譲ってもらっている、その非常事態をリードしてもらっている」自分に。
結局、
相手とタイミングがカブる、厳密にはこれはアナタがカブせてしまっているのです。 相手の話終わりのタイミングを読めていない、もしくは、的確な相槌を打てていないがために相手にまだ会話順番が自分にあると思わせてしまっているということです。
そして、なぜこの現象が起こるのかはひとえに相手を見ていないからです。
根本的には相手に心を向けられていない、興味関心を注げていないからなのです。
その証拠として、苦手な相手と喋る時ほど、こういう噛み合わない会話になりますよね。つまり心ここにあらずで臨んでいる、このことに他ならないというわけです。
つまり、話す時は徹底的に相手を見る。目を背けてその場から逃げたい感じがする自分を意識するのではなく、とにかく相手に意識を注ぐのです。 自分はそこに存在しない、相手がそこにいるだけだと思い、ひたすら見てムードを感じとることです。 単純にいうと自意識過剰からの脱出というところです。
これは、リア充にとってはなんのことのない作業なのですが、コミュ障にとっては悟りを開く修行のような過酷なもの。 でもそれしか解決策はないのです。