方向音痴とコミュ障
方向音痴とコミュ障についてです。一見何の脈略のなさそうですが、その因果関係を次第に明らかにする考察を試みたいと思います。
まず、コミュ障は突き詰めると心の問題と脳の問題、二つの面から分けることができます。
心の問題によるコミュ障だと以下のような感じです。
簡単にいうと自信がなくて萎縮する、シャイであることが原因で上手くコミュニケーションがとれないというものです。実はこれは日本人に共通の人見知りな性質なので、つまりは普通に喋れる人達、コミュ障ではない人達でも、付き合うコミュニティが変わるとコミュ障チックになります。
ふだんの仲間内でならイケイケな自分でも、例えば学校の先輩の輪の中に自分一人だけ、とか会社の上役の中に自分がお世話役でいなくてはならないときなんかは、ドギマギして喋れなくなる、あわてて吃ったり言葉に詰まったりする現象、緊張するということですが、こういう現象が起きます。
だから、誰にでも起きること、なのですが俗にコミュ障と言われている人達はこの度合が強く、身近な人にすら恐れを抱くので、結果として誰に対してもオドオドしてろくに話すことができない、ということがあります。
もし、落ち着いていられるのなら的確な返事ができるのだけれども、人と対峙しているときは常に気が動転しているので、本領が発揮できず分けなの分からないことを口に出したり、はっきり喋れなかったりするのです。
一方、脳の問題としてのコミュ障は以下の通りです。
発達障害に代表されるように、とにかく人と一緒に生活してきて本来なら当たり前に獲得されるであろう社会性を身に着けることができない、人の感情を読んだ行動をとることができない、というものです。
自分としては普通にしているつもりでもなぜか周囲と違うようだ、でも一般的とされる普通の概念が理解できない、という感覚でしょうか。
やはり、脳機能上の問題なので、こればかりは育った環境や教育の良し悪しとは違う性質のコミュ障なのです。 自分の努力でどうこうできるものではない領域だと思います。
そして、何より、心の問題によるコミュ障と違うのは、やはり客観的に自分を見る作業がその特質により実現しにくいということでしょう。
以上、振りが長くなりましたが、
そういったことを踏まえて、今回のテーマ「方向音痴とコミュ障」について考えてみたいと思います。
この方向音痴、世間的にはなんというか、方向音痴な人間がいてもまぁそういう人もいるよね、それに何か愛嬌あるし、、ぐらいの程度で、取り立てて問題視されていませんが、何かあると思うのです。
ワタシなんかも、集団でどこか見知らぬ土地に行ったとき、よく思うのが「どうして皆こんなに道を迷わずに進めるのだろう、たまに間違えてもすぐに正しい方向を見つけ直すことができるんだろう」ということです。
コミュ障なワタシなわけですが、この方向音痴性には何かコミュ障を探るヒントがあるのではないかと思うのです。 ちなみにワタシの場合は絵を書くのはそこそこ上手いのです。よく、方向感覚は右脳、と言われますが、ワタシの場合を考えると同じく右脳による作業とされている絵を描くことが得意なわけですから、右脳の機能が弱いがために脳全体の機能として何か上手く馴染んでいない、ということではなさそうです。
何が言いたいかと言いますと、この方向音痴は右脳とか左脳とかではなく、脳全体の機能の問題として、普通ならあって当たり前のものが備わっていない脳の急所のような所が失活しているのではないかという仮説であります。
というわけで探っていくと、
どうやら脳の組織の海馬(記憶や空間認識を司る部位)の中の嗅内皮質という組織が方向感覚に影響しているそうです。 で、方向感覚に優れた人はこの部位が活発、方向音痴は弱いのです。
ちなみに、この方向音痴かどうかを決める嗅内皮質をもつ海馬という組織、これってストレスを感じると攻撃される部位で、例えば鬱病患者などはこの部位へのダメージが大きいそうです。 もっというと、アルツハイマー病なんかになるとこの海馬という部位が真っ先に影響を受けます。
何が言いたいか、
つまり、うつ病にしてもアルツハイマーにしても社会性を損なう病気ですが、それを担っている部位こそが海馬であり、それは方向音痴と関係がある、
つまり、方向音痴とコミュ障の因果関係がここに成り立つかもしれないという仮説であります。
ただ一方でこんな話もあります。
方向音痴の人には、天然ボケの人が多い、天然ボケの人は、人間関係において苦手な人がおらず、誰にでも分け隔てなく接するので対人関係には恵まれる、という話もあります。
まぁいずれにしても物議を醸す都市伝説的な憶測になってしまいますが、ちょいとした雑学としてどうぞ。