明るい性格、暗い性格は結局、生まれつきだと思う
世の中には、性格を変えて明るくポジティブになろうとか、環境変えれば性格変わるとか、トレーニング次第で前向きになれる、という主張があります。
ただし本当にそうでしょうか。
ワタシはサラリーマンとして毎日コミュニケーションをしていますが、まったくもって、喋ることや人と接することが好きになりません。
もともとそういう暗い性格を治したくて、過酷なサラリーマン業(オフィスがあってビジネスのためにコミュニケーションするような会社の勤め人)を選んで、
入社した当初はもう馴染めなくて毎朝起きると絶望的な気分になり、胸の辺りがざわざわとして、これから会社にいくんだ、、と思うと心の底からゾッとして、
電車トラブル起こしてないかな、とか、
様々な不可抗力を期待しつつも現実は安定感があって、
毎日、青息吐息、そんな状態を重ねて来ました。
コミュニケーションする日々を重ねてきた結果
するとどうなるか?ひたすら耐え続けてきたんだから、どんな人見知りコミュニケーション苦手な人間であっても、さすがにここまでやれば成長して、それなりの社交性を身につけたんじゃないかと思いますよね?
確かに成長した。
普通に、会社に行くのに、死にたいくらいの絶望感を覚えることは当初よりなくなり、仕事もできるようになってきた。
でもそれとは裏腹にワタシはどんどん人と話すのが嫌いになっていっているように思うのです。
そういうところ(商談や懇親会など)に出向かないといけないと分かると、「ウェッ」という気がしてどんよりと気が重くなって、でも逃げるわけにはいかないから覚悟を決めて準備する、そういう感じです。
経験を積めば積むほどに上手くなるというのが、何の分野においてもいえることだと思いますが、こと対人関係については、それがなかなか当てはまらないと思うようになりました。
もちろん、必要なことを伝えるという意味でのコミュニケーションスキルはやればやるほどうまくなります。が、人と打ち解けて親睦する(親睦という言葉、ウッとなる響きです)ことに関しては持って生まれた素質が必要だと思うのです。
人と仲良くなるスキルは天性のものではないか
人と社交する・仲良くなる・友達になるというスキルは鍛えることができず、持って生まれた素質によるもので、それは、年々とその本性が現れてくるもの、性格はごまかすことはできても変えることは不可能というように思います。
私は人生の中で、無理してでも社交的な時期がありました。暗いという自分をどことなく意識していて、それを隠すために無理して明るくする。
おどけて見せたり、テンション高く振る舞っていたりしたのです。
意識下では、暗くて気弱な自分を認識しながらもその感情にフタをしているような、そういう反射メカニズムを持っていました。だから、暗く感じたときほど、テンション高く振る舞うような、そんな感じです。
また、私の父親が口数が少なくテンションの低い人間でしたので、自分はそうはなりたくない、という思いで必死で外交的に生きようとしてきた時代もあります。若かりし頃です。 20歳から25歳にかけてです。
それから10年、どうか。
前述のとおり、むしろ人と接すれば接するほどにその苦痛に精神を消耗し、むしろ現実逃避したくなってきたのです。しかも疲れていますから、明るく振る舞うバイタリティーもなかなか起きてこず、気が付けば、ワタシがなりたくなかった父親のような低いテンションが通常モードになっていたのです。 いや、それでもまだまだ仕方なく朗らかに振る舞おうと日々奮闘していますが、だいぶそれも枯れた油田から採油するように、かすれてきている、そんな感じです。
人と対峙するための基本的なバイタリティが足りていないのです。こうやって文章にすると言葉は出てくるわけですから、そもそも何も発信することがないわけではないはずなのです。
しかし、話そうとしても、必死でそれをやらなくてはいけない感じで、気が付くと「ま、いいか」と、何時間も一緒にいたのにほとんど喋っていない、そういうことになり、会えば会うほどに気まずくなっていく、そんな具合なのです。
そうなると思うことは、
大人になって明るくなったね、社交的になったね、ということはなく、生まれ持った資質によるということを思うようになりました。