セルフガソリンスタンドのオジサン店員の接客態度にイラッときた話
こんにちは。いやいや先日、ガソリンを入れるのにセルフスタンドを利用した時の話です。
車で行った旅行先で帰りのガソリンが足りるか不安だったワタシは、なんとか高速道路に乗る前にガソリンスタンド寄らなくちゃと探しまくっていました。
ところが田舎道であったためなかなか見つからない。日も落ちて周囲も暗く寂しさ漂う1日の終わり感が漂う時間帯でした。
そこでやっと見つかったスタンドは、なんか旧式のセルフサービス設備で、もうボタンとかもタッチパネルじゃなくペコッと押すタイプのもので、しかも使い込まれてボタンの被覆材もはげているようなボロさだったんですね。
さらには、貧すれば鈍するもので、
そこのオジサン店員は、白髪がだいぶ混ざり、度が少し強そうなメガネを掛け、茶褐色の肌に刻まれたくたびれたシワ、およそ隠居後の生活のために仕方なく働いているであろう体たらくでした。
そしてそのオジサン店員はのろりのろりダラダラと場内清掃していて、私が車から降りようとしているのにも関わらずわざわざ運転席ドアの前にきて大して散らかってもいないのにゴミ掃除を始めてたいました。
待つこと少々、そのオジサン店員の掃除が終わり降車しようとドアを開けたタイミングで、私は一言「すみません」と、せかした感じを詫びる意味で挨拶したのです。
しかし、そのオジサン店員はチラッとこちらを見て、何事もなかったかのように、またボサ~っと掃除道具を持ってその場を去っていきました。
まあもう夜だし、あの年で夜勤はダルいよな、分かるわと大して気にもとめずワタシはガソリンを入れようとクレジットカードを機械にセットしたのです。
そして、狭い液晶画面に無骨に表示される、
「ユシュヲセンタクシテクダサイ」
の画面の指示通り、使い込まれて剥がれかかったレギュラーと表記されたボタンを強めに押さこんだのです。
すると、
「キュウユシテクダサイ」
の液晶画面。
予算の関係で1000円分だけ入れたかったワタシは、金額指定ボタンを必死で押すのですが反応なし。
仕方ないのではじめからやり直そうと取り消しボタンを押すも反応なし。
やはり設備が年季入っているから利きが悪くなっているだろうと思い、あの、コミュ障にはおぞましい呼び出しボタンを勇気を出して押したのです。
ピンポーン、
「…」
返事ナシ、なんとなくやっぱり。ああ、だったらこのボタン意味ないじゃんと、せっかく勇気を出して押した無駄骨を呪いながらどうしたものかとしばし考えていたのですね。
(あとになって思えば、給油メーターを確認しながら1000円くらいのところで止めたらよかっただけの話なのですが、やはり世間慣れしていないワタシにそんな融通はきかなかったのです)
と、そのとき、
「どうしたのや」
さっきのオジサン店員が不機嫌そうによってきたのです。
「あ、あの、金額指定ができないんです。あと取り消しも」
すると、
「おたくね、これコンピュータだからね、先に金額ボタンを押さないとできないのだ、分かるか?」
というような高圧的な態度で説明してきたわけです。
カチーンときまして、
「画面の指示通りにやったらこうなったんだよ!! だいたい取り消しボタンが効かねぇってどうなっているだ! それよりも貴様の態度はなんだ! 仕事だろ? 分からないからこっちは聞いてるんだよ!! それも丁寧に聞いているのにいい気になりやがって!」
とは言い返せなくて、
でも今回頑張ってみました。
こちらも負けずに上から目線で、
「ああ、そうなのか、先に金額ボタンを押せばいいわけだな。 それから、油種ボタンでいいだな?」
と、いつもの店員さんにもかしこまるコミュ障モードから脱して最後もDQN風に「ありがとう!」とやってきました。
オジサン店員もなんかふてくされるように去っていきました。 こちらの「ありがとう」に対して「ケッ」と言ったか言わないかという態度で。
怒ることは大事
この話しから得られるヒントとしては、人見知り系で遠慮がちになって喋れないコミュ障の場合やはり怒れるようにならなくては脱コミュ障は難しいということです。
やはり、怒りを覚えている瞬間というのは、コミュ力UP状態というか、人に絡んでいくことができます。 そういった意味ではコミュニケーションというのは一つの攻撃性の表れでもあり、だからこそ喋れるリア充たちは周囲に一目置かれナメられることなく、ウィーウィーやれるということがあげられるでしょう。
あと、やはりよく喋る男性はモテますが、これも攻撃性が生物学的強さの意味合いを持ち、異性の気を引く要素になっているということになるのではないでしょうか。
でも気弱なコミュ障にとって怒るという行為はとても難しい、というかそういう脳反応が起きにくいんですよね。 気が小さいのでビビるという反応をするのです。
これはでも必ずしも悪いことばかりではなくて、やはりアレコレ考えすぎてしまうからビビる、つまり脳の前頭葉の機能が働きすぎて理性が感情を押さえこんでいるとも言えます。恐怖するというのは、あらゆるリスクを想定しているからこそ起こる現象なのですから。
だから、
怒るという行為はコミュニケーション力UPには必要だとしても、少々脳機能の観点からはどうか、(ワタシの場合はアルコール浸りなせいで理性を司る前頭葉がやられてきているのかもしれません。)分かりませんが、
でも本気で脱コミュ障を図り俗世間にまみれるためには、必要な要素となるような気もします。 怒るという行為は、なんだか原子力のような、ギュッと凝縮された膨大なエネルギーを生命に与えているような気がします。
同時に寿命も削っているような節もありますが。(怒りという感情は活力を生むと同時に負のエネルギーも副産物として生みます。これが心に毒の刃を向き、気力ひいては体力をも奪うという消耗感をつくりだすのです)