自己啓発本をよく読む、でも小説や漫画の方が役に立つことが分かった
読書家、というほどのことはないのですけど、ノウハウ系の本が好きで、中学生のころから、読書といえば、「脳内革命」とか「マーフィーの法則」とかそういう本を読んでいました。また社会人になってからも、デールカーネギーの名著「人を動かす」とか「道は開ける」とかそういう本にずっぽりハマって読んでいた時期があります。
本屋とかに行っても、つい自己啓発本コーナーに先に行ってみてしまうのです。雑誌コーナーも嫌いではないのですが、漫画も含めてなんかそういうのが俗な気がして、・・・もっとも、高尚な人間でもなんでもないくせに、自己向上のためなのかそういうスキルアップ系の本を読んでしまうのです。
いや、違うな。
そうじゃなくて、たぶん深層心理としては、理想主義であるがために夢を見ていたいのです。自分がスゴイ人間になって周囲から認められたいというのがあって、
自己啓発本にはそういう夢を見させてくれるタイトリングがなされているものばかりですから、読んだだけで理想のなりたい自分を手に入れられたような気がして、結果的には大して得られないのですが、何度も繰り返して期待してしまうから、だと思います。
やはり、実践。 私には実践するための行動力が足りていなくて、それが積み重ならなかった主要因だと思います。 自分の殻に閉じこもって頭の中であれこれと思案するだけでやった気になってしまっていた、そういうことです。
自己啓発本をやめて小説や漫画を読むようになった
結果、余暇がすこし充実しました。 小説はミステリ系、漫画は歴史もので人気のキングダムや、近年では流行った鬼滅の刃、また彼岸島も、そして胸糞系のグロいものを好んで読んでいます。
自己啓発本で幻想的に得られていた万能感はありませんが、 漫画を読んでいる間は人生の嫌なことから解放されて没頭できる。
この方がよっぽど自分の人生に彩りを与えてくれているではないか、そう思ったのです。
これまでの人生では、そういう俗なエンターテインメントは害悪だと自分を戒め、漫画を読めば頭が悪くなる、それぐらいに敬遠していました。架空の物語からは何も得るものはない、一瞬の娯楽だと。 でも、改めて大人になって漫画や小説などの架空の世界に触れてみて思うことは、面白い、ということです。とてもシンプルな答え。 でも、この面白い、ということが大きな価値であることに気が付いたのです。面白さや楽しさというのは、社会に出ても必要とされるスキルです。サラリーマン生活を送っているといかに遊び心が仕事力に影響するかしみじみと感じられます。それを得るためにはやはりエンターテインメントに触れること、だから漫画や小説が役に立つ、そう気づいたのです。
自己啓発本が悪い、とはいいませんが、 本当に読むべき自己啓発本は、ネットで調べて出てくる数冊でいいのではないかと思います。
家系にハゲがいないのにハゲてきた
INFPでHSPの田中です。家系にハゲがいないのに、ハゲてきました。
HAGE, AGA。そういわれるこの症状。
家系にハゲがいないのに、ハゲてきた
私の家系にはハゲ 薄毛がいないのですが、私、男、厄年41歳にしてハゲてきました。いや、ハゲだけに薄々と気が付いていました。38歳くらいから。妻が高いところから私を見下ろした際に、
「ええー!?カッパ!?」
といったのが始まりでした。
こっそりと私の写真をとっていたものを見せてもらうと、それは紛れもなく、言い訳のできない薄毛でした。でも、私はしきりに、家系にハゲはいない、大丈夫だ、これは、この写真は、ただ光が反射しているだけだ、と信じて疑わなかったのです。
散髪屋で指摘されて負けを、ハゲを認めた
いきつけの美容室で
「お客さん、てっぺん、キはじめましたね。。」
と、申し訳なさそうに指摘されました。
それで私は、とうとう観念しました。これは、ハゲだ、と。
心当たりのあるハゲの原因
大叔父がハゲていた
実は、これも心に蓋をしてきたことなのですが、実は、大叔父、つまり私の母方のお爺さんの兄弟がはげていました。このブログの記事のタイトルで、家系にハゲがいないのにハゲて、というのは私の精一杯の嘘だったのです。つまり、突き詰めるとハゲは、いたことになります。なので、私の母方の曽祖父つまりひいじいさんが薄毛だった可能性があるということです。
この事実が判明した以上、これ以上記事を書き連ねることは無意味な気もします。
しかし、私は運命に抗い、ハゲを食い止めるべくこれから戦っていかねばならないと決意しています。
もしかすると、遺伝だけではないかもしれない。
また何より、
職場にハゲがいなくてつらい、
私の周囲を見渡しても意外とハゲは少なく、これは簡単にハゲてしまってはいけない、そう思っているのです。
だからこそ、少しでもくいとめなければ。
私が一番疑っている自身のハゲの原因
HSP気質がハゲを誘発しているのではないか
私はINFPという性格で、もっともいきづらいとされる性格をしています。同時にHSP(繊細で過敏)でもあり傷つきやすい性格でもあります。
また自身の性格にアンマッチな職場で過ごしている(営業関係、マルチタスク、怒号が飛ぶような職場)ため、日々、生きるのに精いっぱいでぐったりと消耗しています。
それゆえにストレス過多で髪にも影響があるのではないかと思うのです。
ストレスこそ一番のハゲの理由なのではないかと。
いずれにせよ、解決のために動かねばなりません。
先日書いた記事ですが、こういうこともあります。
久しぶりに、田舎の母親に髪の毛のことで相談したところ、やはり、
「ハゲちゃだめ!やっぱり奥さんとしては許容しがたいと思う!がんばれ」
と、励(はげ)まされました。
薄毛、こんなにも強烈にコンプレッサーとなるとは思いもよりませんでした。
ハゲてきたので離婚してほしいと妻に言われた
男41歳にしてハゲてきました。これはこのブログの記事でも21年になって触れてきました。ハゲは遺伝といいますが、私の家系にハゲはいません。母方のおじいさんがハゲていると遺伝的に強烈にハゲやすい(隔世遺伝上、ハゲは母方の方からもらうそうです)といいますが、私の母方の祖父はハゲていなかったそうです。もっとも、私の母方のおじいさんは40歳で亡くなっており、その時点では剥げていなかったそうですが、それ以降はどうだったかは分かるすべもなく、もしかすると、という懸念はあります。というのも大叔父(つまり母方のお爺さんの兄弟の人)がハゲていたのでもしかすると、というところなのです。
ただ、それよりも後天的なことのほうが強いような気がします。お金ができたら髪の毛を遺伝子検査に出してAGA(男性ハゲ)の素質があるのかどうか確かめてみようかと思いますが、
まずそれよりもINFPでHSPという繊細な性格ゆえか、毎日、心配事が絶えないがために、そのストレスが原因になっているのではないかというのが一番の原因ではないかと思うのです。
体も使わないデスクワークの日々、年下の上司に圧を掛けられる日々、怒鳴られること、毎朝ゾンビのような状態で会社に向かう日々、そして家庭にいても妻からのモラハラ。
そう、この妻からのモラハラの一つに、最近つむじのほうがうすくなってきた私に対して、
「ハゲたら捨てる」というのがあります。こどもたちの前でそれを公然といいます。
あまりにも突っ込んでくるので、
「なら来週月曜日に離婚届をもらってくる」
と私が応戦すると、
「貰ってくれば?」
というので、
あてつけに、子どもたちに向かって私はいってやりました
「ママとパパは離婚するけど、みくちゃんたちが中学生になるまではなんとか頑張るね」
といってやりました。こどもにあてつける私のこの性格のクズさもまた情けない限りですが、自分ファーストな私にとって、それが一番妻への当てつけになると思い、徹底的にやってやりました。
「別に親が離婚することは珍しいことではないからめげちゃいけないよ」
と子どもに諭すようにいいました。
すると子ども(小学六年生の娘)は、
「離婚はいや!」
といっていました。
期待していた答え。そうこの声を妻に聞かせたかったのです、この私のうじうじした性格からすると一番いいやりかたです。
すると妻は、
「もういいから!子供の前で!冗談をつっこまないで!」と悪びれているようでした。
ざまぁみろ。
もし応戦してくるようなら私は徹底的に、
「ママも今は専業主婦だけど、これから仕事を見つけなくちゃいけないから大変だね」
「ハゲで離婚だと慰謝料はおそらく発生しないし、もし請求されても裁判にするから、あ、養育費は払うからね、でも、パパ、もう無理して給料のために今のきつい仕事を続けなくていい、辞めてほかの給料が安くてもパパに向いてる楽な仕事についてほそぼそとやっていけるから必ずしも悪いことじゃないんだよ」
とあてつけるつもりでした。このクズっぷり。
でも、日ごろ、くたくたになるまで、営業という性格に合わない仕事を給料のためにやっている私にとって(学がないのでそこそこお金をもらえる仕事は営業しかない)、うっすらとよぎる、「もう(この無理をしている状態と)闘わなくていいんだ」と思うとどこか、ふっと一瞬、気持ちが楽になるような気もしたのでした。
時間をおいて、その後のできごと。
息子が娘(おねえちゃん)に向かって、「ばか、〇〇」などの罵倒ワードを使って兄弟げんかになろうとしていました。
その際、妻がそれを捕まえて、
「どうしてそんなこというの!」と叱っていました。
息子が、
「冗談でいったんだよぉ」
と言い訳すると、妻は、
「冗談でもいっちゃいけないことってあるの!」
としかりつけていました。
この自分勝手が。と私は思いました。
自分は公然と、ハゲた旦那は捨てる、だの言っておきながら、よくいうわ、と。
そのスタンスが子どもに、すぎる冗談を言わせているというのに、それを指摘しても聞き入れない妻。
今回も、よっぽど私はこういってやりたくなりました
「相手にいっていい冗談は、ハゲたから離婚する、だけだよ」
と。
いいたかった、これを子どもたちの前でいえたら、よっぽどスッキリできただろうに。
でも、さすがに教育上これは悪い、喉まで出かかって、云いたくて言いたくて仕方なかったのをグッとこらえて、私は、少しでもハゲを予防すべく、新しい運動習慣を身に着けるべく、外に走りにいくのでした。
※ちなみに、このハゲをうけて以下のことを実践しています。
亜鉛はハゲを防止する栄養です。
ちなみに90日飲み続けて効果なし。半年くらいで効果がでるとのことなのでもう少し続けます。
2)酒を減らす。
今まであんなに抑えることができなかった飲酒習慣。ビール4本分くらい毎日飲んでいたのを、半分に減らすことにしました。もうハゲのためなら酒も減らせる。これほど強い動機はありません。辞めることはまだできませんが、確実に減らすつもりです。
今までつくることができなかった休刊日もつくるようにします。
3)
運動習慣。週末の休みは30分以上走ることにしました。
まだ週に一回ペースですが、これも週3日以上にする予定です。
ハゲないためにやれることは徹底的にやりたいと思います。
こんなに悔しいことはない。
私は妻に求婚した覚えもなく、向こうからの願いで結婚した身です。それゆえに許せないのです。
でも、たしかにハゲた夫はいやだろう、、ちくしょう、
だったらAGA治療に行かせてくれといったものの、そんなお金を出す余裕はうちにはないという。
地獄。
やれるところまでやろうとおもいます。いろんな意味で。
でも、ハゲはやはりまずい。
厄年に入って背中がぞくぞくする
40歳の厄年になって背中がゾクゾクするという経験をするようになりました。背筋がジワジワ重くなってくる、寒くないのにゾクっとザワザワする、そんな心地悪い感覚ににわかに襲われる感じです。体調不良の兆しもしくはメンタルが少々弱っていることが原因かと思っていますが、男の40歳の厄年のパワーを感じています。※神社に厄払いにいって毎日破魔矢に向かってお祈りするようになって、なんだかゾクゾクする感じは減りました。
背中がゾクゾクする現象
ゾクゾク、背中に違和感を覚えるときの感覚です。背中が痛い、背中が痒い、この感覚を除く違和感は大体がゾクゾク、ザワザワ、どんより重い、そんな感じかと思いますが、これぞ総括して背中がゾクゾクすると言っていいでしょう。
原因は霊ではなく不安感
背中がゾクゾクするのはスピリチュアル的に憑き物が云々との見解を実しやかにいう方もいますが実際は、それは証明しようがありません。なので現実的には、背中の神経に作用するような状況が原因かと思って間違い無さそうです。
ホラー映画を見たり、いきなり不意を突かれて秘密をばらされたり嫌がらせされたりした時にゾクっと身震いすることがありますが、それに似ています。心と体は密接に繋がっているのでゾクっゾクっとすることが慢性化することだってあるかと思います。
厄年に背中がゾクゾクする
これは私の体験談ですが、厄年の40歳前後はなぜだか背中がゾクゾクするようになってきました。会社の建物に入る時、また椅子から立ち上がってトイレに向かうため廊下を歩いている時など背中がゾクゾクしてほんのりとずしぃと重くなる感じが続きます。
厄年を迎える時期だからこそか、昔から云われるその年周りは何か一時的にそういう身体的節目が訪れるのか?
原因は不安の塊、将来や今抱える不安こそが背中に作用
40歳を迎える私が最近になって背中がゾクゾクするのは、おそらく不安です。40歳というのはあくまで一つの個人的な体験談で、人によってもっと早くそうなる方もいらっしゃるでしょう。
人生ある程度生きてくると自らの限界を知るようになってきます。思いつくあらゆるチャレンジに挫折して、これ以上どう頑張れいいのか分からない、そういう壁を迎える時期が多くの人にとってあると思います。
身動きが取れない、年を重ねた自分にはもうあとは成り行きしかない、そういうふうに、若い頃のような選択肢の広さを失い、ただ日々を消耗しながら、いつまでこんな状況が続くだろうと絶望を重ねるうちに、徐々に背中にその不安が溜まり顕在化した状態がまさに背中が呪われたような状態、ゾクゾクする現象かと思います。、
人生、もうどうしたらいいかわからないキャパオーバーな環境に置かれた時、、背中がゾクっとする
私がこれです。絶え間無い考え事や悩みを溜め込みすぎ卒倒しそうな中、それでも日々を生き抜かねばならずくたばるわけにはいかない、そういうストレスの集大成が背中に現れるようになったという気がしています。
出来るだけ気を逸らすようにするのですが脅迫観念的に背中の違和感に意識を張ろうとしてしまい、ゾクゾク感ぜずにはいられなくなっています。
冒頭書いたとおり、対処として、神社に厄祓いに行きました。
こうすることで、悪霊の仕業では無い、、自らの勝手な思い込み、疲れているだけと割り切れるようになりました。
職場に入ってきた美人
美人が職場に入ってきました。とても目元が整っていて、背筋もすらっとして、全体から漂う気品。コロナでマスクをしていてまだ顔の下半分は見ていないものの、もうハズれようのない顔立ちをしているのです。顔とは下半分が決め手で、実は目元よりも端正さを求められるパーツと言われます。この部分を隠すことになったコロナ禍では、ゆえに世の中に美人が溢れました。
それはさておき、まだマスクの下を見られていない、つまり全てを確認できたわけではないのですが、恐らく人生でも一番2番に入るくらいの、身近な美人となったわけです。
心が掻き乱されて仕事になりません。
あのマスクの下はどうなっているんだ!?とヤキモキしてしまいます。
でも、変に目を向けると、周囲から美貌に囚われていると疑われそうで、
ろくに見ることができません。それどころかむしろ、不自然なほどに視線を逸らすような感じになってしまい、、でもその顔を見たくて、そして見れないというジレンマに困憊を覚えずにはいられないのです。
スタイルも素晴らしいのです。美人は自分が人から沢山の視線を受け、感じ慣れているせいでしょうか、その立ち居振る舞いも洗練されています。ピンと伸ばした背筋から保たれる全身のバランス、あれは女性だけの30分健康教室に通い慣れてるな、と思わせる体の肉の無駄のなさ。細い指、縦に長い艶やかな爪。
そのどれをとっても落ち度なき完成度。
神はどうして同じ人間にこれだけの差をつけたもうた、と疑念を抱かずにはいられない、異性なのに嫉妬してしまうくらいの端正さ、永遠に朽ちないのではないかと惑わせるくらいの年齢に見合わない若さ。
心が掻き乱される。
実際に職場では早くも女性社員の標的になって妬まれているその美人。何もしていないのに、その立ち居振る舞いが鼻につくのか、陰口の対象となってしまっている。
過ぎたるは及ばざるが如し。
やはり、人は普通が一番なのだと思いました。
オーバースペックなものが混ざると、揺らぎが起こる。美人美男子ばかりの職場に美人美男子が入るのは平衡が崩れることはない。
でも、普通のところに煌めきを放つ存在が混ざると平衡は崩れ、そこにひずみが生まれるのでしょう。
既婚かつ男としてのスペックも低い私にとって、その女性とどうこうなることは間違っても起こることはなく、何を妄想しても不毛なエネルギーを費やすだけになるのですが、ただそれでも、止まらないこの、脳を掻きむしりたいような煩悶。
幻惑の美貌にただただ辟易とするのでした。煩悩をたちきれ、そう自分に言い聞かすのでした。
コロナ禍によって正当化されようとしていた飲み会の断り文句が、なくなろうとしている
人類は2020年初めにおそわれたコロナ禍により、おおくの社会生活に対し、自粛を求められるようになりました。
会社に勤務する体制にも変化が出て、リモートワーク・テレワークという新たな様式も定着していきました。そして何より、このパンデミックによって生まれた、裏の、新しい幸福こそ、
「飲み会を正当に断る理由」ができたということです。
新型コロナは、大惨事を人類にもたらしました。しかし、日があれば影があり、影ができることは同時に日も生み出しているということでもあります。私のような非社会的人間にとって、このコロナ禍は、飲み会を正当に断れるという利権があり、これは多大なベネフィットといえるのでした。
この、世捨て人ともいえる社会性に乏しいヒトである私にとって、飲み会という、ただ目的のない、他愛のない会話を、まるでキャッチボールで遊戯するような感覚で対峙するというのは、とても心身に負担を強いられる事象です。
お酒を飲むのは、すっかり好きになりましたが、飲み会は苦手です。魂を削るようなバイタリティの減退感を伴います。これは相手がどうこうではなくて生理的に無理なのです。
コロナ禍以前は、毎週毎週、飲みに誘われそれを断る文句を考えなければならない、それは残業2、3時間分に匹敵する労力です。私にとって。淡々と仕事して帰りたい、それが本音です。
でも、世の中はそれを良しとせず、飲みにケーション・コミュニケーションと、まるで世界をパーティ化しようと迫ってきます。明るくあれ、たわむれよう。人類にはそのDNAを紡いでいくために社交性をまず優位なものとして残そうとする本能があるのではないでしょうか。社交性はあらゆる能力の欠損を補って余る力があります。
(こどもに遊んでとせがまれるので今日はここまで、つづきはまた。)
紙が一番重いからね、というアピール
ゴミを捨てるときなどに、色んな重いものが出てきます。
家具や家電製品などの重量物を筆頭に、持ちにくくて地味に重く感じる段ボールなど、いろんな重さ、が存在します。持ち方や体調、その人の力量により相対的に重さが変化するもの、はたまた一人の人間では物理的に持ちようがない絶対的な重さを持つゴミ(不要物)も存在します。
そんなこと、
誰でも知っています。
しかし、ここで至言があります。
紙が一番重い、という言葉です。
紙は、空気の次に軽いの代名詞ともいえるくらいです。実際に、重要なことを書類一つで決定づけられることを、紙きれ一枚で、などと表現されるくらいです。
つまり、紙は、薄い。そして軽い。重んじられない。
なのに、それが、まとまってゴミになる時に、
重い、
と表現され、それが格言めく、あの瞬間。
わしは人生を長く生き、悟りの境地にいきついたなり、
紙は重い。
まるで神(かみ)は偉大なり、と言いたげに、その重さを知ることを、われ真理を得たりといわんばかりの指摘。哲人ソクラテスも言ってたかのような、それを知るマウント感をもって訴えてくるあのドヤ?感。師匠の雰囲気、教祖の領域。
紙は、一枚一枚は重いけれども、隙間を最小限に抑えてまとめることができるから重い、ということや、もとの素材が木だから重い、など色んな根拠はあるわけですが、人間は到底、あの一枚一枚が軽い物質を重いとは受け止めておらず、人生を経験するごとにどうやらそれが一番この地球上で人間の命の次に重いという表現をしたくなるようになるようです。
そして、この現象の何が怖いかというと、、自分もまたその言葉を発するようになることです。最近の若者はどこどこが成っていないという老人による指摘は、実は脈々と受け継がれ、古くはエジプトのピラミッド時代の文献にまでさかのぼるというように、歴史はまさに繰り返されます。
そして、受け継がれるDNAのひとつに、
紙は重い、という、われ真理を得たりという悟りの境地を、自分もまたある程度の年齢になると後輩に告げ、どこか優越感に浸ってしまう、のであります。